第17話  白い羽

 ラ・バヤデール第四幕の映像を見た翌日の日曜日。

 スペイン語のレッスンを休みたいと申し出ると、結翔は快く承諾してくれた。

 再び視聴覚室へと向かう。

 事務処理があるからと、職員が出勤していたことは幸いだった。

 ろくに確認もせずに押し掛けたのだから。

 一人部屋に籠り、鑑賞三昧の時を過ごした。

 どれもガムザッティの婚約式で踊るヴァリアシオンだ。

 ガムザッティの心に、ほんの少し沿うことが出来た。

 だが、肝心なのは自分がどう踊るかなのだ。

 私はそれが掴めていない。

 薄暗がりの中、世界中のプリマ達の名演技が続き、時に見惚れては我に返る。

 危うく本来の目的を忘れてしまうところだった。

 繰り返し鑑賞するも、私は手がかりを得ることが出来ずにいた。

 コンクールまでの時間は僅かで、自分は何かを掴まなくてはならない。

 何本目かを見た後、手にしたのは来栖の踊るガムザッティだった。

 全幕通して観たいという誘惑を振り切り、チャプターを選択する。


 圧巻の出だし。来栖がポーズをとるだけで、花が咲いたような艶やかさがあり、美貌の王女そのものだった。

 振り付けはカプリオールと呼ばれる、空中で足を打ち付けるジャンプから始まる。

 私と咲良のエカルテから始まるものに比べ、難易度が上がるが、よりダイナミックな印象を与える。

 二回の跳躍。

 高さがあり、空中での姿も完璧だ。

 ポーズからワルツへの移動もお手本のよう。演技をしながらも、全てが自然で、アティチュード・ターンの安定感も抜群。

 ジャンプで舞台を一周するところでは、ステップの代わりにエカルテを入れている。

 私の心は彼女のダンスに釘付けだった。

 そして、三連続のグラン・パ・ドゥ・シャ。

 

(……えっ?……)


 目の前を当たり前のように過ぎていく光景。

 ほんの一瞬のことだった。

 掴めそうで掴めない。

 一分三十秒が瞬く間に終わった。


 だが、何かが心にひっかかる。

 何が?


 私は再びチャプターを選び再生する。

 完璧なガムザッティ。

 技術も間の取り方も演技も。

 だが、心に残ったのはそれとは別のものなのだ。


 目を凝らすも見つからないまま、一分が過ぎていった。

 ラスト近く、三連続パ・ドゥ・シャの直前だった。


 私を虜にしたもの。

 グリッサードの足の位置。

 踵が前に出され、ポジションが正確に守られていた。

 そしてシャッセ。

 両足を引き寄せ、垂直に高くジャンプしている。


 グラン・パ・ドゥ・シャの直前の、繋ぎのような小さなステップ。

 それを流さずに隙なく踏んでいるのだ。

 私が助走に気を取られている間に、見せ場のグラン・パ・ドゥ・シャは終了していた。

 それほど、来栖のパは素晴らしかったのだ。

 完璧主義の彼女らしく、どんなことにも万全を期すのだろう。

 誰だって、助走のような動きだからと言って、手を抜いているわけではない。それを教則本のように踊ることが困難なだけなのだ。

 でも……来栖は……。


 私は何をしているのか。

 自分と来栖を比べてどうしようというのか。

 無駄なことだ。

 どうやって彼女のレベルに到達しよういうのか。

 高い技術、豊かな表現力に奥深い解釈。

 あまりにも自分とかけ離れた存在ではないか。


 逡巡する私の肩に、そっと何かが触れた。


「羽?」


 首をひねり、私は自分の肩を見る。

 どこからか落ちてきたのだろう。

 払おうとした瞬間、それは消えていった。


 ふわふわの白い羽。

 体に触れても、気づかずに過ぎ去ってしまうもの。

 捉えようとしても捉えきれず、日常に消え去る儚い気づき。

 私は何かを得ようとしていた。

 心を注ぎ、注意を払わなければ、通り過ぎてしまう何かを。


 白い羽。

 かけがえのない一瞬のひらめき。


 私は鞄からスマホを取り出し、震える指で画面をタップする。

 コール音を耳に、自分自身に問いかける。

 早急すぎるのではないか。

 メッセージの方が礼に適っているのではないかと。

 だが、私は決断を逃したくなかった。

 一刻も早く実現したかったのだ。

 相手は思ったよりも早く、数回のコールで出てくれた。


「こんにちは〜沙羅ちゃん。お電話くれて嬉しい!」


 おっとりと柔らかい声。

 舞花。

 楡咲バレエ団のプリマであり、現在私と咲良の指導をしてくれている穂泉舞花だ。

 連絡が取れたことに安堵するも、本題はこれからだ。


「お願いがあります!」


 本来なら、“今よろしいですか?”とか、“お忙しところ申し訳ありません”とか、そういった前置きをすべきだろう。

 だが、私にはそんなゆとりはなかった。

 手にした小さな羽を逃したくなかったのだ。

 

「あら? どうかした? 何かあった?」


 やや戸惑い気味に、それでも優しく舞花は答えてくれた。


「……レッ、レッスンを見て欲しいんです! 今すぐに!」


 唐突に要求をする私。


「……」


 しばしの沈黙。

 舞花はどれほど驚いているだろうか。

 呆れているに違いない。

 それほど私は無謀なことをしているのだ。


 やがて電話越しに、息の漏れる音が聞こえてきた。

 舞花が笑っている。

 あまりの非礼に失笑しているのだろうか。


「……安心した……」


「え?」


「沙羅ちゃん、きっといい顔してるわね?」


「あ、あの……すみません、突然……」


 初めに言うべきだった言葉がようやく口から出た。


「ううん。見たかった……沙羅ちゃんが本気になるところ。咲良ちゃんに比べて、沙羅ちゃんは気弱なところがあるから心配してたの……」


「す、すみません……」


 舞花に指導を受けながら、そんな気遣いをさせていた自分を申し訳なく思う。 


「今どこにいるの?」


「……あ、あの……バレエ団の視聴覚室です……」


「そう、丁度いいわね。そこで待っていて。団の稽古場を使わせてもらいましょう。レオタードとトゥシューズは私が用意する。足のサイズは?」


 私はレッスン着も、トゥシューズも持参していなかった。

 こんな行き当たりばったりの提案に、舞花は至れり尽くせりの段取りをしてくれている。

 稽古場を使うとなれば、職員の手も煩わせてしまう。

 私の要求はあまりにも自分勝手なものだった。

 恥ずかしさと申し訳なさで胸がいっぱいになるも、この好機チャンスをを逃したくなかった。


「じゃあ、事務室には私から手配しておく。三十分くらいでそちらに行くから……何かを見つけたのよね? 期待してる! 頑張って!」

 

 激励の言葉に礼をすると、舞花との通話は終了した。

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