第16話  弱さ

 私はバレエ団へ向かう足を早めた。

 駅に向かう坂道を、息を切らせて上る。

 この時間ならば誰かいて、中に入れるはずだ。

 滑り込むように門をくぐり、受付へと駆け込む。


「失礼します!」


 咳き込むように言い放つ私に事務員が驚いている。


「あら? 確か……有宮さん? おひさしぶり」


「おひさしぶりです! あの……お願いがあります! 視聴覚室を利用させてください!」


 私は先を急ぐあまり、挨拶を飛ばしてしまったことに気づいた。

 挨拶を済ませた後、再び要件を告げる。


「ちょっと待っててね。空き状況を確認するから……」


 突如現れた私のために、職員はパソコンで確認を始めた。

 ほんの数分の時間がひどく長く感じられる。


「今なら空いています。今日は五時までなら大丈夫よ。見たい資料は何? 仮の入館証を発行する間に誰かに用意させます。これに記入してください」


「ありがとうございます!」


 逸る気持ちを抑え、私はペンを走らせる。そう。これが見たかったのだ。

 親切な対応にほろりとさせられるも、今はそれどころではない。

 お礼はあとでしっかりしよう。

 入館証を首にかけ、三階への階段を駆け上る。

 視聴覚室へ到着すると、別の職員が機材をセットしているところだった。


「英国のバレエ団の映像です。機材の使いは分かりますか?」


「はい!」


 以前、相山と鑑賞会をしたことがあるから何とかなるはずだ。

 手渡されたリモコンを操作し、チャプターを選択する。

 全幕を鑑賞したいところだが、今日は五時までと時間に限りがある。

 私が観たかったもの。

 

 ――ラ・バヤデール 第四幕――


 ラ・バヤデールには様々なバージョンがある。

 あらすじは概ねどれも同じだが、ラストか演出家によって違う。

 “影の王国”が黄泉の国であり、二人は死後の世界で結ばれるというもの。

 ソロルが目覚め、ニキヤのいない現実の世界で生きていくもの。

 ニキヤに許されたソロルが天国に迎え入れられるもの。

 そして……。

 これから私が観ようとしているのは、第四幕のある演出。


 第四幕。

 ソロルとガムザッティの結婚式。


 待望の第四幕の始まりだ。

 鼓動がどきどきと高まり、私は食い入るように画面を見つめる。



 ――第四幕



 第三幕の婚約式は、王の宮殿が舞台となり、華やかなダンスが繰り広げられる。

 打って変わって、結婚式は厳かな僧院でおこなわれる。

 灰色を基調とした暗鬱とした画面。

 高僧達が重々しい足取りで、列を作り入場する。

 そして新郎新婦が上手と下手から、舞台中央へと歩み寄る。

 ソロルとガムザッティだ。

 ガムザッティは、鮮やかな緋色のドレスに、同色のマントを纏っている。

 ソロルの婚礼衣装は白。

 二人は向かい合い、恭しく礼をする。

 神の前で愛を誓うために。


 花婿と花嫁の幸福を祈り、神殿舞姫バヤデールが踊る。

 だが、ソロルの心はここにはなく、隙あらば逃げ出そうとする。

 王やお付きがいなければ、とっくにそうしていただろう。

 互いを見つめる眼差しは冷え切り、猜疑心に満ちている。

 王に引き合わされた日。二人の間には好意のようなものがあった。

 だが、それは過去のものとなってしまった


 そして……。

 私が視聴覚室へ来た目的。


 ――ガムザッティのヴァリアシオン。


 “四幕の見どころはガムザッティのヴァリアシオン。彼女の苦悩が表現されるの”


 舞花の言葉が蘇り、ここに駆けつけたのだ。

 もっとガムザッティを知りたい。

 その一心だった。


 重く暗い旋律に合せ、ガムザッティが踊る。

 ドゥ・ヴァン(前)に足を伸ばし、軸足を変えてアティチュード。

 途切れることなくポーズが繰り返される。

 掌を上に向け、腕を高く伸ばす姿は、天に祈りを捧げているように見えた。

 悲哀に満ちたねっとりとした動きは、婚約式での自信に満ちた彼女ではなかった。


 シェネターン、ピケターン。


 翻るドレスは花嫁の揺れる心。

 自分は愛されていない。夫となる人の心は自分のものにはならない。

 舞姫はすでにこの世にいないのに。

 何故?

 彼女さえいなくなれば、彼の迷いは消えると信じていたのに。

 婚約者の心は、亡き女性の下にあるのだ。

 何故?

 ソロルも自分を憎からず思っていたはずだ。父王の富や権力だけが目当てではなかっただろう。自分は美しく魅力もある。あの日、私は彼の心を動かしたのだ。

 思いは通じあっていたのに……。


 つま先、指の先から王女の嘆きが零れ落ちるようだ。

 終盤に向かい曲のテンポが上がる。

 まるでガムザッティに決断を迫るかのように。


 だが、あの人が、あの人があんな最期を遂げた。

 それが彼の心に深い傷を負わせてしまった。

 もう誰も彼を癒すことはできない。

 心の傷も罪も全て自分が背負おう。後戻りはできないのだから。

 私に迷うことは許されないのだ。


 きりりと手を胸に添えるポーズで、ヴァリアシオンは終わった。


 ガムザッティの苦悩が私の心を強く揺さぶる。

 ニキヤへの殺意を胸に、平然と婚約式に臨んだ王女。

 私は彼女に共感することが出来ずにいた

 だが今ならば、少しは理解できるような気がした。


 式の最中、ニキヤの幻がソロルを苦しめ、それはガムザッティの前にも現れた。

 怯える彼女を見て、ソロルはニキヤの死にガムザッティが関与していたことを知る。


 だが、全てが遅すぎた。

 神の前で愛を誓う時が来たのだ。

 もう逃げることは許されない。

 ソロルとガムザッティが体を屈めて、聖なる火の前で手を取り合った瞬間。


 神殿に稲妻が走り、轟音と共に崩れ堕ちる。

 逃げ惑う王と貴族、戦士と僧侶。

 すべてが石壁の下敷きとなり、神殿は廃墟となった。


 暗闇に一条の光が差し、天国への階段を昇るソロルとニキヤを照らす。

 二人は白いヴェールに繋がれたまま、天上へと迎えられる。

 神の祝福が降り注ぐ中、二人は永遠の愛を誓うのだった。



 ――四幕の終了




 気づけば頬に涙が伝っていた。

 こんな結末だなんて悲し過ぎる。幸せになって欲しかったのに。

 結ばれたいという願いが、天国でしか叶わないなんて。


 ガムザッティも苦しんだのだ。

 ソロルに恋人がいることを知った時には、彼を愛し過ぎていた。

 それが彼女の判断を誤らせた。

 “ニキヤさえいなければ”

 愚かな望みにすがってしまったのだ。

 ニキヤの毅然とした態度も、彼女のプライドに火をつけたことだろう。

 ガムザッティは意志が固く、身を引くことなど許せなかった。

 愛を失うなどあり得なかったのだ。

 

 ガムザッティは強い女性で、二幕のヴァリアシオンは、豪華絢爛たる宮殿で踊られる。彼女は世界中の幸福を受け輝いていた。

 誰もが羨む王の娘。富と権力。全てを手にした高貴な姫君。

 

 だが私は、王女の人知れぬ懊悩を目の当たりにした。

 彼女の弱さに触れ、初めてガムザッティに近づけた気がした。





 

 

 

 

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