第10話   咲良

 金曜日。

 春休、私は学校へと向かう。

 職員室で教師からA4の茶封筒を手渡されると、中身を確認するために、教室に立ち寄った。

 封筒に収められているのは、休み前に課された、採点済みの宿題だ。

 成績の落ちた私は、課題を提出することが義務付けられていた。


 ふみゅー……。


 結果は惨憺たるものだった。

 しかも、全てがちょっとしたケアレスミスによるものばかり。

 正解から大きく逸れているわけではない。

 問題の読み誤りや、計算の手順が間違っているのだ。

 あと少しの残念な回答に、口惜しさが胸にこみあげる。

 新しい問題集も同封されていて、手にずしりと重い。


「次は頑張ろう!」


 レッスンがあるのだから、気持ちを切り替えなくては。

 電車を乗り継ぎ、楡咲バレエ学校に到着。

 だが……いつも私より早く来ている咲良がいない。

 彼女がレッスンを休むなど心配で、教師に尋ねる。


「咲良ちゃんはね……体調が悪いんですって……大したことないから少し休めば大丈夫だそうよ……」


「……よかった……」


 咲良が怪我をした記憶が蘇り、不安な気持ちに襲われる。

 でも、“大したことはない”と、教師は言っていた。

 やや気がかりながらも、私はバーに付き、レッスンに励むのだった。


 翌日の土曜日。

 舞花の指導があるというのに、咲良は現れなかった。


「大したことが無いと言われてもねぇ……いつも元気な子が休むと、やっぱり心配ね……」


「……私もです……」


 舞花はどちらかと言えばのんきな性格だが、やる気満々の生徒が休めば、何かあったのではと案じるのだろう。


 ヴァリアシオンのレッスンの後、私は事務室で咲良の家の所在地を尋ねた。

 共に舞花のレッスンを受けるくらいだから、親密な関係だと思ったのか、事務員はすぐに教えてくれた。

 咲良の家は、バレエ学校から徒歩と電車で三十分ほどの所にあった。

 住宅地にある、戸建ての建物が咲良の住む家だった。

 突然訪れたら驚くだろうかと、躊躇いがちにインターフォンを押すも返事がない。

 しばらく待った後、もう一度。

 やはり返事はない。

 家には咲良しかいなくて、彼女は来客に対応できる状態ではないのかもしれない。

 諦めてその場を離れようとした時だ。


「沙羅!?」


 頭上から私を呼ぶ声。

 見上げれば、咲良が窓から顔を覗かせていた。


「玄関を開けるから、入って!」


 直ぐに部屋着姿の咲良が現れた。

 顔色がいつもより白く見えたが、元気そうだった。


「……ごめん……急に……」


「いいよ……ちょっと驚いたけど……」


 私は咲良に居間に招かれた。


「座って……」


「……ありがとう……」


 私がソファーに腰掛けると、咲良がジュースを運んできた。

 グラスの氷がからからと音を立てている。


「ごめん……具合が悪いのに気を遣わせて……」


「気にしないで……そろそろ起きようとしたところなの……それより何?」


「……あ、あの……心配で……」


「ありがとう……でも、大したことないんだ……月曜日にはレッスンに戻る……」


「よかった……穂泉さんも心配してた……」


 部屋を見渡すと、花や置物、部屋を彩る装飾品の類が一切ない。

 その代わりに、トロフィーや賞状が棚や壁一面に並べられている。

 珠算、読書感想文、書道、絵画……。

 その中には、バレコンのものもあった。


「何か珍しいものでも?」


 私が呆気にとられる理由など、咲良には想像もつかないようだ。


「……う、うん……凄いなって……」


「ああ、賞状? 親がこういうの好きなの……やるなら徹底的にやれって……バレエも……」


「教育熱心なのね?」


「……まあね……何事も一生懸命にやれば、その経験がいつか何かの役に立つって……バレエも……」


 何だろう。

 咲良には思うところがあるようだ。


「……両親は、私が高校を卒業したら、大学に進学して、堅実な職業に就くことを望んでいる……口にはしないけど……その上、私が自分達と同じ考えだと思い込んでいる……」


「……」

 

 私は咲良の話に耳を傾ける。


「……冗談じゃない……“いつか何かの役に立つ”って……私はそんなことのためにバレエをやってるんじゃない……そんな無駄なこと……バレエが好きだから踊っているのに! 私は無駄なことは嫌なの!」


 言葉がずしりと心にのしかかるようだった。

 私と父は、バレエと学業の両立で対立している。

 だが、それは私が将来に渡って、バレエを続けるか否かという問題。

 「バレエを続けるつもりなら」

 父はそれを前提に、私に厳しく接しているのだ。

 それに比べ、咲良の両親は、彼女の意志を確認することさえしていない。

 

「……あの……ご両親に打ち明けてみたら?」


 私に出来る精一杯のアドバイス。


「だめだめ! 両親は、いわゆるエリートなの……といっても、有名大学を出て、安定企業に勤めている……その程度だけど……自信があるせいで、自分と違う価値観なんて受け入れない……そんなもの、彼等には必要ないから……」


 咲良には頼れる味方がいない。

 そんな環境で、独り奮闘しているのだ。


「何? 同情? そんな目で見て……私は知っている……あの人達にも弱点が一つだけある」


「……弱点……?」


 実の親に向ける言葉としては、あまりにも強烈だ。


「それはね……実績……社会的に認められること……それを積み上げて突き付ければ、納得せざるを得ない……彼等にとっては世間体が全て……社会的な評価とか……それしか頭にない……」


 部屋中に飾られた、賞状、トロフィーを見渡す。

 咲良がバレコンに挑み続ける理由。

 もしかしたら……。


「バレエも……コンクールで賞を取り続けて、認めざるを得ない状況を作る……この手で……でも、それが出来るまでは、自分がプロ志望なのは秘密……絶対に反対されるもの……バレエはお金がかかる……援助を打ち切られたら、プロになるためのレッスンは受けられない……あ、沙羅……この話は誰にもしないで……知られたくないの……」


「もちろん!」


 誰にも言うものか。咲良は強い決意を胸に秘めている。そんな彼女を、私だって応援したい。自分は咲良の秘密を知ってしまった。責任は重大なのだ。


「頑張って……」


「ありがとう……でも、今回のコンクールは別……はっきり言ってレベルが低い……貴女にとっても……反則並み? でも、どうしても穂泉さんのレッスンを受けたかった……自分を成長させたかった……」


「……わ、私も! 私もっ!」


 舞花のレッスンは自分を成長させてくれる。

 辛いことがあるかもしれない。

 でも、きっと乗り越えると誓ったのだ。


「ごめん……一人で話しちゃった……せっかくお見舞いに来てくれたのに……大したことないの……でも、健康管理も鍛錬のひとつだから、休む時は休んで、万全のコンディションで練習したい……」


「わかった! しっかり休んで、しっかり踊る!……偉いな……咲良……私なんて……」


 私は父とのことで心が折れそうだ。

 自分の不甲斐なさが身に染みる。


「どうかした? 沙羅?」


「あ……うん……父と揉めていて……」


 私は成績のことで父と衝突した話をした。


「へぇー!? 沙羅が!? そんなことを? やるじゃない!」


「……そっ、そんなに驚くこと!?」


「ん−まぁねぇ……貴女は容姿は悪くないし、まあまあ踊れてる……なのにいつも受け身で……もったいないと思ってたんだ……でも、見直した!」


「……そっ、そう? ありがとう……あはは……」


 まあまあ。

 悪くない。

 見直した。


 これは誉め言葉と受け取ってよいのか。

 この場で礼を言うことは妥当なのか。

 判断に迷うところだが、私は咲良にそんな印象を与えていたのだ。

 彼女と関わることで、私の知らない自分が見えてくる。


「……あ、ジュースが……入れ替えるよ」


 汗をかいたグラスの中、ジュースが溶けた氷で薄まっていた。


「平気! 少し薄い方が飲みやすくて好きなの!」


「変わってる!」


 咲良がそう言った後、私達は声を立てて笑った。




「よろしくお願いします!」


 月曜日。

 咲良はレッスンに復帰した。







 

 

 

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