第9話 両立
ふみゅー……。
春休み前日の夜。
自室の机にうつ伏せになり、私は深く息を吐いた。
守れなかった。両親との約束。
「バレエを続けるなら、成績をキープすること」
科目全般が見事な下降ラインをたどった。
「沙羅さんは体の具合が悪いのですか? 何か悩みでもあるのですか?」
クラス担任が私の不調を気遣い、両親に連絡をするほどの有様だった。
ふみゅー……。
成績が落ちたこともショックだが、両親や学校にまで心配をかけてしまった。
答案用紙を前にした父の顔が、ありありと目に浮かぶ。
結局父に、「どこか具合の悪いところがあるのか」、「悩みがあるなら相談に乗る」と問いかけられた。
私が首を横に振ると、一瞬ほっとしたような顔をした後、みるみる険しい表情へと変わり、「じゃあ、理由はあれだな?」と言った。
父の言う“あれ”。
バレエのことだ。
私が頷くと、「約束は忘れてないな?」と、厳しい口調。
返す言葉などなかった。
以前通っていた、『城山晶子バレエ教室』と、昨年の九月よりの『楡咲バレエ学校』ではレベルも練習の量も違う。
日数も週三から週五となり、私の負担は急激に増えたのだった。
その上、いろいろなことがあり過ぎた。
モナコのサマー・スクールへの参加、ジゼル全幕の主役を務めたこと、ラ・バヤデールへの出演。
そして、六月に出場するコンクールのために、普段の基礎練に加え、ヴァリアシオンのレッスンにも励んでいる。
空中庭園のあるこの家に戻ってから、私の日常は大きく変わってしまった。
だが、約束は厳然と残されていて、私はそれを守らなくてはならないのだ。
父は、一先ず、コンクールの出場を取り止めないかと、私に提案を持ち掛けた。
「バレエを辞めろ」と言うことに比べれば、大きな譲歩だろう。
だが、私は彼の妥協案を拒絶した。
舞花のレッスンを受けられるという、千載一遇のチャンスなのだ。
これをふいにするなど、絶対にありえない。
思わず強気に出てしまったことが父の逆鱗に触れた。
売り言葉に買い言葉。
それはこんな状況に使われるのだろう。
口論の末、
「次の試験で成績が戻らなかったらバレエを辞めさせる」
厳しい宣告を突きつけられてしまった。
ふみゅー。
もう少し上手く立ち回れなかったものか。
なんとか誤魔化し、機嫌を取りながら、コンクール出場の許可を得られなかったものか。
腹水盆に返らず。
こんな状況にピッタリのことわざだ。
父と私が、互いに熱くなってしまったため、母も間に入れなかった。
もし、母が私をかばおうものならば、父は更に激高しただろう。
父は頑固な人で、怒り出したら引けないたちなのだ。
母は、おろおろと私達を見守るだけだった。
私自身、親にこれほど逆らったことはなく、自分の激しさに驚いていた。
絶対に譲れないという強い気持ちが、反抗的な態度をとらせたのだ。
……でも……。
成績が下がってしまったのは事実。
どの科目も、全般的に不調だったが、特に数学が芳しくなかった。
何故、これほど点数が下がってしまったのか、原因がわからない。
鞄を開けると、担任から渡された宿題の束が出てきた。
まずはこれを消化しなくてはならない。
自宅での予習復習は、毎日欠かさなかった。
環境は変わっても、自分はやるべきことはやってきた。
「なぜ?」
心に問うも答えはなかった。
バレエだけ、好きなことだけに打ち込めればいいのに。
……いけない……。
思考が空転している。これは現実逃避でしかない。
私のすべきことは、成績をもとに戻し、バレエとの両立を果たすことなのだから。
成績が落ちたこと、父と争ったこと。
今日はいろいろとあり過ぎて疲れているのだ。
考えても解決策は見つからない。
「今日はもう寝よう!」
自分を励ましながらも、体は重く、鉛の塊を飲んだように心は苦しかった。
それでも私はいつも通り浴室へと向かう。
蛇口をひねり、バスタブに湯を張りながら、入浴剤を選んだ。
どれも目に鮮やかで、僅かに迷う。
甘い花の香りもいいが、爽やかな柑橘系もよい。
リフレッシュ出来るように檸檬にした。
ふみゅー。
湯船に体を静めれば、甘酸っぱい香りに包まれる。
私の大切なひと時。
これを欠かすことはできない。
心が休まれば、また明日頑張ろうという気持ちになれる。
勉強をきちんとして、次回の試験で挽回するのだ。
折を見て父に謝ろう。
私の将来を案じて、怒っているのだから。
自室に戻り、照明の灯らぬ【左側】を見ると、天使の笑顔が浮かんだ。
彼は、今も理解を得られぬ状況に置かれている。
だが、孤独に耐え、三人の味方を得ることが出来た。
きっと、これからも増えていくだろう。
会いたい。
会って、どんな風に乗り越えたのかを聞きたい。
……でも……。
これは自身の問題なのだから、自力で解決しなくてはならない。
いつも彼に甘えてばかりはいられないのだ。
プレイヤーにスイッチをかけ、音楽を流す。
『ラ・バヤデール』三幕。影の王国。
ソロルの作り上げた、美しい幻影の世界。
影の精霊が、山を下りてくる場面だ。
白い影が、編み込まれたレースのように重なり合う。
優しく甘い旋律は私を眠りへと誘う。
明日……。
また明日頑張ろう。
今日すべきことはしたのだから。
いつしか旋律は遠のき、私は微睡へと沈んでいった。
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