第4話 浜辺にて
奥津の宮を参拝した後、私と結翔は来た道を戻り、片瀬江ノ島駅近くのパン屋で、数種類のパンを買った。いろいろ試したいからと、一つを半分に分けて食べることにした。
笑顔の店主に見送られながら、パンの入った紙袋を抱えて、駅近くのカフェに立ち寄る。
珈琲をテイクアウトして、再び海岸へと戻った。
結翔はリュックサックからレジャーシートを取り出し、浜辺に敷いた。
「これ便利だな……ほんと……なんでも入る……食べよう……これは……しらすパン?」
二つに割ったパンの一つを結翔から手渡される。
「ありがとう!」
「どういたしまして!」
シートに腰をかけ、「いたたきます」と、声を揃えて食べ始める。
狭いシートでは自然と距離が近くなる。
春とはいえ、まだ寒い三月の午後。
潮風に身を縮める私の頭に、ぽんと掌が乗せられた。
(……え?……)
そして、髪をわしゃわしゃと指で梳かれた。
「……あっ……ひゃっ!……えっ?」
「ごっ、ごめん!……驚いた?」
「あ……少し……」
「触るとどんな感じなのかなって……」
「……どう……でした?」
「……柔らかかった……」
ふ、ふみゅー!
すごく恥ずかしい!
「……もう一回……いい?」
「は、はい……」
結翔は再び頭の上に掌をポンと乗せると、今度はそのまま下へ滑らせた。
指先が首筋から肩を通り、背中に触れる。
ふ、ふみゅー!
やっぱり心臓に悪い。ドキドキする。
でも、掌は温かくて、そのまま触れていて欲しかった。
「……あ、あの……」
「……えっ、えっと……すべすべ……綺麗でつい……日に透けて……」
「そっ、そうですか……あはは……」
恥ずかしいけど、普段から手入れをしておいてよかったと思う。
「……さっ、寒いですね……」
「うん……」
「……あの……寄りますか?……少しは温かくなるかも……」
「……おっ、おぅ……」
私は黙したままの結翔に添う。
コート越しに伝わる体温と鼓動。
波の音に耳を傾け、くつろぐ人々を見るともなしに眺める。
隣には結翔。時間が止まったような春の午後。
「……しっ、しらすパン旨いな!」
「……ほっ、本当に!……お土産に買いましょうか?」
手元に美味しいものがあってよかった。
これで気恥ずかしさから逃れられる。
しらすパンは素朴な味わいだが、塩加減が絶妙だった。
パンを食べ、珈琲を飲むと、ほっこり温かい。
「……あのさ……俺……秋絵さんと父に結婚式を挙げて欲しいんだ……」
「わっ! 賛成です!」
とても素敵な話。
紬も喜ぶはずだ。
「……でもなぁ……本人達にその気がないみたいで……なんというか、そんなことなくても幸せなのかな……」
私は結翔の義母、秋絵を思い浮かべる。
知的で優しそうな人。
あんな女性がそばにいれば、きっと結翔の父親も心休まるだろう。
「……それに……家のことも、もっと秋絵さんの好きにして欲しい……そういうこと好きなんだろ? 女の人って……それなのに……遠慮してるのかな?」
ぽつりと結翔がつぶやいた。秋絵の慎ましさを他人行儀と感じるのか。
私は結翔の家を思い浮かべる。
統一されたインテリア。隙の無い調度品の配置。
結翔の実母の采配は完璧で、彼女の記憶から、結翔はそう思うのだろう。
だが、女性だからといって、インテリアにこだわるとは限らない。
関心が薄い人だっているはずだ。
「……あの……聞いてみたらどうですか?」
「秋絵さんに?」
「はい……家を改装したいかどうか……勧めるのはそれからでいいと思います……」
結翔はしばらく考え込んでいた。
「そっか……聞かないとわからないか……」
「そうです! 本人に確かめるのが一番です!」
「ありがとう……沙羅ちゃん……遠慮してたのは俺の方だった……」
柔和な天使の笑顔。
少し前までは、旧知とはいえ他人だったのだ。
家族になっても悩むことは多いだろう。
でも、そんなことで、彼らの幸せが損なわれることはないのだ。
きっと。
「ごめん……沙羅ちゃん……」
「……えっ? 何がですか?」
また謝罪?
髪に触ったことがそんなに後ろめたいのだろうか。
「いや……その……三人組……」
MORIYAの若手社員三人、竹下悟、飯島康太、坂上洋一は今年の夏季休暇を利用してサンティアゴ・デ・コンポステーラに巡礼する。
サンティアゴ大聖堂は、天使のお告げにより聖ヤコブの墓を発見された記念に建てられた聖堂だ。巡礼者達は、聖ヤコブの象徴のホタテとひょうたんと杖を携え、長い旅をする。巡礼者の
「三人は、結翔さんと同じフランス人の道を使って巡礼するんですか?」
「……まあな……歩き始めるのはサリアからだけど……」
巡礼のルートはいくつかあるが、イベリア半島の大西洋寄りの内陸部にあるフランス人の道が人気で、一般的だ。結翔はパリを起点として、ピレネー山脈を越えて、アルベルゲという巡礼宿に泊まりながら、約四十日間歩いたのだ。
徒歩ならば、100キロ、自転車ならば200キロで巡礼と認められる。
竹下、飯島、坂上の三人は、サンティアゴ大聖堂より100キロ手前の町、サリアまで交通機関を使って移動し、そこから歩くという。そのためには二週間の日程、土日、祝祭日と9日間の有給休暇組み合わせることで、晴れて巡礼を達成できるのだ。添乗員もなく歩くのだから、スペイン語が話せなければ不自由するのは目に見えている。
「スペイン語のレッスンのこと? 気にしないで……」
「……ありがとう……でも、あの人達が旅行で使えるようになるには、そんなに時間はかからないから……」
「そんなこと……一緒に勉強する人がいると楽しいもの……」
これは本心からのもの。
あの三人は、会えば会うほど、気持ちの良い青年達だった。
会話を交わさずとも伝わる清々しさ。きっと高い志を胸に秘めているのだ。
彼らのような人物が、結翔のそばにいてくれることのなんと心強いことか。
それに比べれば、自分が結翔と二人きりになれないことなど、なんの問題にもならない。
「いい人達ですね……」
「……ああ……」
白い波が打ち寄せ、泡となって消えていく。
波打ち際で、はしゃぐ幼子を呼ぶ母親の声が聞こえる。
「……結翔さん……あ、あの……大学生になったら何をしたいですか?」
少し早まった質問だが、当人が合格祝いを背負っているのだから、今更だ。
「そうだなぁ……バイト……父の会社で……」
「お父様の仕事の勉強ですか!?」
「……そんな……おおげさ! ……バイト……雑用係だよ……資料の作成とか……整理、ファイリング……その他もろもろ……まずはそんなところから……」
「凄い! 尊敬します!」
「……そっ、そんなキラキラした目で見ないでくれ!……頼むから……雑用係なんだって!……沙羅ちゃんの方がよっぽど……」
憧憬を込めて見つめるも、彼は何故か引き気味だ。
オフィスで働くというのに、結翔は何をそんなに恥ずかしがっているのか。理解できぬまま、私は結翔に熱い視線を送り続ける。
「そんなことありません! 社会人と一緒に働くなんて立派です!」
「そ、そうかな……うん……きっとそうなんだ……ね?」
「そうです!」
「お、おう……」
理由は分からないが、結翔は自信が足りないようだ。
私に出来ることは、彼を励ますことくらい。
「これは何でしょう? 揚げたパンに……トマトソースに……ひき肉?」
結翔から渡されたパンを頬張る私。
きつね色に揚げた生地を噛めば、ソースの旨味が口いっぱいに広がる。
「おっ?……これもいける!」
「名前覚えてますか?」
「……なんだったかな?……後で確かめよう……あ、そういえば、この前、舞が……沙羅ちゃんがコンクールに出場するって……舞の指導を受けるって本当?」
結翔が猜疑心に満ちた目をする。
彼の目には、舞花は単なる迷惑人間としか映らないようだ。
「本当です……穂泉さんは的確なアドバイスをくださるの……」
「……」
信じられないというように、結翔が目を見開いた。
「穂泉さんは素晴らしいダンサーですよ? 技術も表現力も……」
そして心も。
私など到底及ばぬ遠い存在なのだ。
だが、バレエに疎い彼には、そんな視点は持てないようだった。
きっと、長い付き合いの結果、そうなったのだろう。
彼女の言動を見ていれば、なんとなく想像がつく。
悪気なく舞花に振り回される人間は、少なくないかもしれない。
「そうだ! これから江ノ電に乗って、稲村ケ崎に行くぞ! 天気がいいから夕日がよく見える……少し時間を潰さなきゃだけど……」
「わっ! 行きます! ……七里が浜も歩きたい……」
「おっ! いいね! じゃあ、早速出発だ!」
こうして私達は、再び江ノ島駅へと向かった。
―― 結翔の合格を知ったのは翌日のことだった。
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