第3話  江の島再び

 舞花による初レッスンの翌日の日曜日。

 私と結翔は江ノ島電鉄、通称江ノ電の車両に揺られていた。

 私達は今年の元旦に、初日の出を見るために江ノ島を訪れた。

 ところが、お参りも観光も一切せずに帰ってしまったのだ。

 「なんだか申し訳ない」と、結翔が主張し、あらためて江島神社に参拝することになった。彼は妙なところで律儀だと思う。

 ……でも……。

 せっかく神社へ行くのならば、試験の結果が出てからの方がよいのではないだろうか。

 結翔の大学受験は無事に終わったものの、結果発表はまだなのだ。

 試験の結果を疑っているわけではない。

 根拠はないが、予感のようなものがある。

 だからこそ、合格祝いを兼ねて神社を詣でたかった。

 ……それにしても……。

 そもそも、結翔は合格祈願をしたのか。

 私の記憶では、初詣のときの彼には、切迫したような緊張感は見られなかった。

 ただ、神社へつながる参道の静寂を堪能しているかのようだった。


「……結翔さん? そのリュック……」


「おっ? これ? 舞にもらったんだ! 沙羅ちゃんも一緒に選んでくれたんだろ? 凄くいいぞ!」


「……え、っと……喜んでくれた? あはは……」


 私が試験の発表後に遠出をしたかったのはそのせいもある。

 舞花が入学祝いにと購入した、黒いナイロン製のリュック。

 私はあの日、舞花とリュックを買い、その後自分の服を見立ててもらっている。

 今日の服はその時選んだもの。

 ガーリーなショートコートにネイビーのボックススカート。舞花とお揃いのコットンのセーター。

 贈り物を背負った結翔と、新しい春物の服を着た私。

 それが私の密かな夢だった。

 なのに……。

 舞花は早々に結翔にプレゼントを渡してしまったのだ。

 特段問題はないはずなのに、何故か面白くない。

 お気に入りの服を着るも、うつうつとする私。


「……沙羅ちゃん! もうすぐだ!」


 春の日差しが車内を温かい空気で満たしていた。

 真冬の明度は薄れ、かすみを纏った光が眩しい。

 やがて車両は江ノ島駅に到着した。


「あれ? 沙羅ちゃん……新しい服?」


 ホームに立つ私に結翔が声をかける。

 東京駅から藤沢を経由し、江ノ電へと乗り継いでここまで来た。

 その間の移動は慌ただしく、結翔は私の身なりに気を配るゆとりが無かったようだ。まじまじと見つめられ、頬がほんのり熱を帯びていく。


「う、うん……穂泉さんと一緒に……」


「そっか! 似合ってる……いい買い物が出来たな……」


「……ありがとう……」


「舞は沙羅ちゃんを困らせてない?」


「う、ううん……あはは……」


 発表前にリュックを渡したのは引っかかるけど、久しぶりの遠出なのだ。 

 小さなことは考えまい。

 存分に楽しむぞと、私は小さく決意する。


 江ノ島駅から十分ほど歩いて海岸に出ると、弁天橋の向こうに、こんもりとした緑の島が見える。江の島だ。

 江島神社は、日本三大弁財天を祀っている神社だ。島全体が神社となっていて、自然を楽しみながら参拝でき、山頂からの眺望は格別だ。

 青銅の鳥居をくぐり、仲見世通りを経て、朱の鳥居へ。


「まずは辺津宮……まだ先があるけど頑張ろう!」


「はい!」


 辺津宮。

 江ノ島駅から最も近い参拝所だ。次いで朱色の社殿の中津宮へ。

 それぞれ参拝した後、江の島山頂部を経由して奥津宮を目指すのだ。

 石段をひとつひとつ踏みしめ目的地へと向かう。

 自分の足で歩けば感慨もより深く、一年前のことが思い出される。

 去年の今頃、私は深い失意の内にいた。

 そして、沢山の出会いがあった。沢山の出来事も。

 自分がモナコのサマースクールに参加するなど、考えもしなかった。

 その上楡咲バレエ学校の発表会で主役を踊るなんて……。

 しかも、つい先日、群舞とはいえプロの舞台に立ったのだ。

 

 結翔のこともそうだ。

 初対面の彼は、不気味な怪人でしかなく、こんな風に並んで歩くなど想像さえしなかった。


 時折乱れる呼吸を整えつつ、私は石段を登り続ける。

 あと少し。

 目的地まであと少し。

 でも、ずっとこのまま歩いていたい気もする。


 たった一年のことだというのに、多くの出来事が私の身に振りかかった。

 人生を変えるほどのことばかり。

 一年前。

 私はバレエを辞めると心に決めていた。

 あの時の私に、自分が声をかけることが出来るならば、こう言いたい。

 

 「バレエを諦めないで」


 諦めなくてよかった。

 きっかけは結翔との出会いだった。

 結翔、牧嶋、来栖、そして舞花……。

 出会いは連鎖していくのだろうか。

 今もコンクールに向けてのレッスンが始まっている。

 楡咲のプリマバレリーナ、穂泉舞花の手ほどきを受けるなど、昨年の私に予測できただろうか。


 一年前。

 私はバレエが好きで、踊っているだけで幸せだった。

 反面、挫折をすれば、安易に辞めようとする子供でもあったのだ。


 ……今は?


「沙羅ちゃん! 山頂部に到着だ!」


「いい眺め! お天気がよくてよかった!」


 結翔の声に私は我に返る。

 見渡せば、眼下に江の島、遠くに相模湾を臨むことができる。

 素晴らしい眺望に目を見張る私。

 弁天橋から江の島を眺めた時、これから過ごす時間を思い、わくわくとした。

 だが、高みに登れば、それとは違う感慨が胸に押し寄せてくる。

 どこに立つかで、目に映る風景は変わるのだ。


「気分サイコー!」


「本当に……来たかいがありました……」


 ベンチに腰をかければ、潮風が頬を撫でていく。

 言葉なんていらない。

 風が髪を梳くにまかせればよい。

 もう少しここにいたいと思うが、今日は最後まで歩くと決めている。

 ここはゴールではないのだ。


「次は奥津宮!」


「あと一息ですね!」


 結翔の掛け声と共に、私達は再び歩き始めるのだった。



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