第四章
第1話 コンクール
楡咲バレエ団公演『バレエの夕べ』は、賛辞を受けながら幕を降ろした。
私はその夜、興奮のあまり眠ることが出来なかった。
素晴らしい舞台が頭の中を駆け巡り、疲れているのに目は冴えている。
夢と現実の間を漂いながら、寝付いたのは明け方のことだった。
だが……そんな時間は長くは続かない。
次の課題が私を現実へと引き戻すのだ。
『バレエの夕べ』が終了し、記憶も鮮明な、その週の土曜日の昼下がりのことだった。
私は楡咲バレエ学校の事務室で、スマホを操作する舞花を凝視していた。私の隣には咲良がいる。彼女もまた同様に舞花の指先を見つめていた。
「……さて……と……これで完了!」
舞花がスマホをタップする。
「ありがとうございました!」
声を揃えて私と咲良。
「うふふっ……バレエ学校名でアカウント登録してあるから簡単ね……」
本当に。スマホとはなんと便利なものだろう。
あっという間に私を次の試練へと送り出したのだから。
舞花は私と咲良を『白峰バレエコンクール』にエントリーした。
開催日は六月の第二週の土曜日。先着五十名の申し込みで参加可能だ。
会場は白峰ホール。ホールの所有者の白峰春子は、元実業家でバレエ愛好家として知られている。『白峰バレエコンクール』は、彼女が引退後設立した文化財団が主催するもので、小規模ながらも由緒あるバレコンだ。
審査方法はヴァリアシオンを踊る一次のみ。
賞金やスカラシップの授与もない。
レベルはそれほど高くなく、はっきり言って、発表会の延長線のような存在だ。
本格的なコンクールに参加する前の、プレ・コンとして広く認知されている。
「沙羅ちゃんには丁度いいわね……コンクールは初めてよね?……いい経験になると思う……」
「ありがとうございます……」
私は国際コンクールに挑戦した経験はあるものの、怪我で断念している。
小規模な舞台の方が、気負うことなく臨むことが出来そうだ。
「……でも……」
舞花がチラリと咲良を盗み見る。
「咲良ちゃんはねぇ……貴女、入賞の常連者でしょ? いいの? こんな初心者向けで……」
咲良が入賞常連者だということは初耳だった。
「八月に全国コンクールがあるけど……いいのかしら?」
「はい! 私は穂泉さんの指導を受けたいんです!」
「わかりました……来週の土曜日から振り付けを初めて、当面は週一回。土曜日の午前に見ます……通常のレッスンも怠らないようにね……じゃあ、頑張って!」
「よろしくお願いします!」
舞花を見送ると、私と咲良が残された。
気まずい。
『ラ・バヤデール』の鑑賞会以来、溝が出来ていた上に、今回は同じ役で競い合うのだ。
咲良の性格からすれば、ライバルと慣れ合う気など微塵もないだろう。
それでも何か話さなくてはいけない気がした。
溝の原因は誤解なのだから。
「……あ、あの……コンクールにはよく出場するの?」
「ま、ね……小学生の頃から……でも、別に必須じゃないよ?……今の私達に必要なのは、コンクール用のヴァリアシオンの練習じゃなくて基礎練だもの……でも、自分の実力がわかるし、コンクールが励みになることもある……じゃあ、今日はこれで……」
「うん……またね……」
“私は穂泉さんの指導を受けたいんです”
咲良はブレるということがない。
ひとたび目標を定めれば、前に進むだけなのだろう。
彼女は王女ガムザッティそのものではないか。
ガムザッティ。
美しく、誇り高い王の娘。
愛を勝ち取るためには、手段を選ばぬ激しい気性。
咲良は意思が強く、役柄や演技以前に、雰囲気が合っているような気がする。
私と言えば……。
やめよう。
考えていると気持ちが重くなる。
「頑張れ私!」と自分に気合を入れる。
バレエ学校を出たのは、夕方四時近くで、外は仄かに明るかった。
バヤデールのレッスンを始めたのは、真冬のことだった。
薄暗い夕暮れの中、初めてバレエ団の門をくぐったことが、昨日の事のように思い出される。
あれから二か月が経ち、季節は移り変わろうとしていた。
時は常に流れている。
自分の将来を決める日は確実に近づいているのだ。
帰宅をすると、私は食事と宿題を済ませた。
湯船に体を沈め、一日の疲れをとる。
自室に戻り、パソコンの動画サイトを見る。
目的は、世界中のプリマが踊るガムザッティだ。
全てが素晴らしいものだった。
様々な振り付け、演出。
同じ振り付けであっても、ダンサーによって個性が違う。
だが、共通するのは、やはりガムザッティは強い女性だということ。
ドラマチックでメリハリのある踊り。
そして、基礎に忠実であるということ。
ガムザッティのヴァリアシオンはクラッシックの魅力を盛り込んだものだ。
これはごまかしが効かないということを示す。
もし、自分に利点があるとすれば、基礎を活かした踊りができることだろう。
……いいえ。
それは咲良も同じこと。
彼女もまた、揺るがない基礎を身に着けているのだから。
「わっ! この三連続ジャンプ凄い!」
ラスト直前のものだ。
終盤に近付くほど、体力的に厳しいはずなのに、微塵にもそれを感じさせない。
跳躍は回を増すほどに高さを増し、三度目にクライマックスを迎えて、観客の心を掴むのだ。
「……すごい……」
咲良なら。
咲良ならどんな風に跳ぶのだろう。
ジャンプの得意な彼女にとって、ここは最大の見せ場となるだろう。
「……やだ……私ったら……」
いつの間にか咲良のことばかり意識している。
彼女に勝つつもりなのだろうか。
コンクール入賞常連者の咲良に。
自分はなんと大それたことを考えているのか。
「沙羅ちゃん! まだ起きているの! そろそろ寝なさい!」
階下から苛立つ母の声がして、時計を見る。
いつの間にか日にちが変わっていた。
「は〜い……今、寝るところ……」
返事をすると、私は慌ててベッドに潜り込むのだった。
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