第24話  バレエの夕べ 第一部

 二月の第二週、土曜日。

 楡作バレエ団特別公演【バレエの夕べ】当日。

 第一部、ラ・バヤデール三幕に出演のダンサーは、身支度を整え、舞台袖へと向かった。

 影の精霊たちの衣装は、白いクラッシック・チュチュに、肩から手首を覆うヴェールだ。

 舞台袖は薄暗いにもかかわらず、白い衣装が浮き上がるように見えた。

 中でもひときわ、目を引くダンサーがいる。

 舞花だ。

 彼女は、僅かに差し込む光を吸収し、弾くように輝いていた。

 幅広のティアラがどこか東洋オリエント風で、神秘的な雰囲気を醸し出している。


「……沙羅ちゃん……リラックスして……群舞は大切な見せ場だけど、練習の時の力を発揮出来れば大丈夫……」


 舞花が優しく微笑み、自分の顔が強張っていたことに気付く。

 落ち着かなくては。

 自分のために。舞台を楽しみにしている観客のために。

 自身に言い聞かせるも、不安は拭えない。


 影の精霊の一人が「頑張りましょう!」と囁き、賛同の声が次々と漏れ出た。

 いよいよ出番だ。


 足の震えを抑え、私は舞台へと進み出る。


 アラベス、パンシェ。

 後ろに上げた足に軸足を移して、上体を反らしながら、傾斜になった床を下座へと進んでいく


 前に進み出て、再びアラベスク。

 これを三十二回繰り返す。


 ここは山の頂。

 草深く生い茂る森の中。


 アラベスク、パンシェ。足を高く上げる。

 後ろに上げた足に軸足を移して、上体を反らす。


 ここは幻の世界、影の王国。作り出したのはソロル。


 アラベスク、パンシェ。足を高く上げる。

 後ろに上げた足に軸足を移して、上体を反らす。


 傾斜を降り切ったところで、方向を変え、今度は上座に向かって進み続ける。

 私の背後には規則正しい列が生まれ、新たに傾斜を降りる列と層をなす。

 群舞の美しさが発揮されようとしていた。


 アラベスク、パンシェ。上げた足は高く。

 後ろに上げた足に軸足を移して、上体を反らす。


 天女のように優雅に、静かに降りる夜霧のように、貴方の心に訪れる。

 穢れない純白は、北の果て、国境に連なる雪の住居ヒマラヤのごとし。


 アラベスク、パンシェ。上げた足は高く。

 後ろに上げた足に軸足を移して、上体を反らす。


 緊張のため軸足が震え、力が入らない。

 同じポーズを繰り返すことで、体の一部が酷使される。

 足が痺れつりそうになるが、同じ姿勢、表情を保たなくてはならない。


 アラベスク、パンシェ。足を高く上げる。

 後ろに上げた足に軸足を移して、上体を反らす。


 優雅に、しなやかに。愁いを込めて。

 影の精霊として最後まで振舞わなくてはならない。


 もうすぐ、四列目が完成しようとしていた。 

 白い行軍は間もなく終わる。

 だが、最後まで気をぬくことは許されない。


 アラベスク、パンシェ。

 

 あと、三回


 アラベスク、パンシェ。


 あと、二回。


 アラベスク、パンシェ……。


 あと一回!


 苦しい息をこらえ、ようやく三十二回のアラベスクを終える。

 私は踊り切ったのだ。

 団員達が、左右に列を作りポーズをとると、会場からの割れんばかりの拍手が起こった。

 精霊たちが麓へと山を下る場面は、この作品の中で最大の見せ場の一つで、それが成功したのだ。

 誇らしさが恐れを遠ざけ、代わりに最後まで舞台を務めようという勇気が湧いてきた。


 だが、ほっとしたのも束の間、次のフォーメンションのため、素早く移動しなくてはならない。

 

 左右端に分かれて列をなし、三人のソリストと共に踊る。


 やがてジャンプや回転で舞台を大きく使いながら、ソロルが登場する。

 高貴な戦士ソロルを表現する踊りだ。


 ――ソロルの前に現れるニキヤ。


 私は映像で舞花の素晴らしさを理解したつもりだった。

 だが、舞台上の彼女の美しさは、それとは比べ物にならなかった。

 儚くも神々しいまでの美しさ。

 その輝きは女神そのもので、阿片が作り出した幻とは思えないほど。


 もし、ガムザッティが現れなければ、二人は結ばれたのか。

 王の申し出を断っていれば、ソロルは阿片に溺れることはなかったのか。

 いいえ。

 二人は初めから結ばれるはずもなかったのだ。

 彼らの愛は、現実の世界では、実を結ぶことのない花のようなものだった。

 神殿舞姫と貴族では身分が違い、二人が別れるのは時間の問題だったのだろう。

 だが、ソロルは気づいてしまった。

 ニキヤなしでは、生きる意味も喜びもないことに。


 ――彼女の死が彼を目覚めさせたのだ――


 私は視聴覚室で見た、舞花の演技を思い出す。

 礼儀を失しないだけの粗末な身なり。

 たおやかで慎ましやかな態度。

 だが、誇り高く、毅然とした態度で死に臨んだ舞姫。

 ソロルを許すことが出来るのはニキヤだけで、彼女なしにソロルの救いはない。


 それが舞花のニキヤなのだ。


 ――影の精霊の群舞。

 

 精霊たちは列をなし舞台へと再び登場する。

 白い花咲く庭園のように。

 枯れることのない永遠の花園。その美しさは王の宮殿にもまさる。


 音楽に合せ、細かなステップを踏み続ける。

 神経が酷使され、体力が搾り取られるも、私は疲れることを知らなかった。

 共演者から力を得たように、不思議な力が私を踊らせた。

 まるで自分が自分でないかのように、早いステップも焦ることなく、根気よく踏むことが出来た。 


 精霊の群れは腰を下ろし、後ろ足を伸ばして整然と、隙の無い完璧な線を作った。

 それは客席に向かって開かれた半円となり、その見事さに再び拍手が起こった。

 ソロルとニキヤは、その中央に立ち、天に向かい手を高く挙げる。

 神に祝福された愛を誇るかのように。

 

 ―― ソロルとニキヤのパ・ド・ドゥ


 ヴェールを手にしたニキヤが、アラベスクをしながらターンをする。

 高度なテクニックを要する難しい振りを、舞花は宙に浮かぶ天女のごとく踊る。

 ニキヤは、ソロルの作り上げた幻でしかない。

 彼女は毒蛇に噛まれ命を落としているのだ。


 だが、ニキヤは生きている。

 影の王国はソロルの心そのものなのだから。

 

 ヴェールの片端は、ソロルが手にしている。

 白い布は二人の心の絆で、死の国と現世うつしよを繋ぐもの。

 ニキヤはソロルを許すために影の王国に現れたのだ。


 ソロルのヴァリアシオンの間、群舞は舞台袖へと退場する。


「みんなよく頑張った! あとひと踏ん張り!」


「はい!」


 舞台監督の言葉に、力強く頷くダンサー達。

 そして再び、ジャンプをしながら舞台へと飛び出していく。

 物語は最後の佳境へと入った。

 舞花がスピードを上げターンをしながら舞台を横切った後、精霊達は円を作りニキヤとソロルを取り囲む。


 恋人たちは抱き合い、愛の勝利を宣言する。

 二人は現世では結ばれなかった。

 だが、神が見守る影の王国で愛は成就したのだ。






 微かな光がソロルの目を射抜く。

 厚いカーテンから忍び込む光は、次第に強さを増していく。

 割れるように痛む頭を抱え、ソロルは考える。

 自分はいつからこれほど、光を厭うようになったのか。

 まるで闇を愛する悪鬼のようではないか。

 朦朧とした意識が鮮明になっていく。

 眼前には見慣れた居室が広がり、愛する人の姿は既にない。

 記憶をたどれば、阿片の壺を与えられ、寝台に横たわったことが思い出された。

 そして気づく。自分は阿片の幻覚に溺れていたのだと。


 生まれたばかりの朝日は、やがて灼熱の矢となり大地を焦がす。

 自分は再び日常へ戻り、渇きと共に生きなくてはならない。

 だが……。

 愛する人が許してくれた。

 その真実だけが、虚しさを癒してくれる。

 深い悔恨と共に、ソロルは生きる決意するのだった。



 

 ――三幕の終了



 

 拍手と歓声が湧き起こり、永遠に続くように思われた。


「やった! 成功よ!」

 

 団員達が手を取り労い合う。

 会場の規模も観客数も、発表会とは比べ物にならないのだから、これほどの歓声を耳にすることは初めてだった。

 拍手の音が波のように押し寄せ、私はそれに身をゆだねるように立ち尽くした。

 ダンサーと観客が一体になる瞬間に、私は呆然となった。

 拍手と歓声の中、レッスンの苦しさが泡のように消えていく。

 全てが成長の糧となり、そして心に誓うのだ。


 ――また踊りたい!


 と。


「おつかれさま! 最前列、よく頑張ったね!」


 誰かが私に声をかけ、それは徐々に増えていった。

 

「……あ、ありがとうございます……」


 胸がじんと熱くなる。

 頑張ったのは自分だけではなく、皆もだというのに。

 むしろ、私は共演者達に見守られたおかげで踊り切れたのだ。

 感謝の気持ちで胸がいっぱいになるも、言葉にならず涙を必こらえる。


「さあ、カーテンコールよ! 行きましょう!」


 舞花の掛け声と共に、私達は再び舞台へと戻って行った。

 



 

  

 

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