第23話  約束

 ラ・バヤデール公演の前日。

 緊張して臨んだリハーサルは無事に終わった。

 ソリスト、舞花のダンスは素晴らしく、私は見とれないよう気持ちを引き締めるのに必死だった。

 私は四枚のチケットを入手することが出来た。

 紬の分は私が用意するから、貴女は自分のチケットを有効に使うようにと、舞花は言った。

 牧嶋の分は、団の誰かが用意するだろうとも。

 彼はやはり、楡咲バレエ団と何らかの繋がりがあるようだ。

 それはさておき、私は自分に割り当てられた券を、両親と祖父母に渡すことにした。

 結翔は入学試験を控える身なのだから、彼が公演に来るのは不可能だ。

 たとえ本人が望もうと、周囲がそれを許すはずもない。

 初めてプロの舞台に立つ私を見守って欲しいが、今回ばかりは諦めるべきだろう。

 帰宅し、明日の準備を整えた頃、電話の呼び出し音が鳴る。


 ――結翔だ。


 逸る気持ちを整え、私は電話に出た。


「こんばんは、沙羅ちゃん……今いい?」


「うん……」


「明日は行けない……ごめん……」


 電話の向こう、結翔がすまなさそうに言った。


「ううん……勉強頑張って……」


「……ありがとう……」


 結翔にはやるべきことがあり、今はそれに専念すべきだなのだ。

 こうして電話をくれるだけで嬉しい。

 嬉しい……はずなのに、小さなささくれのように、胸にちくりと痛みが走る。


「……あのさ……忙しいところ悪いけど……」


 結翔の声がやや低くなった。


「……何……?」


「うん……大事な時にごめん……あのさ……沙羅ちゃん、俺に何か言いたいことがあったんじゃない? この前の電話からずっと気になっていたんだ……なんか俺に遠慮してない?」


 鼓動が高まり、額に汗が滲む。

 結翔は私の疑念に気づいていたのだ。

 だが、それを口にしてもいいのか。

 思い過ごし、勘違い、誤解……きっとその類のことなのだ。

 そもそも、私に彼の言動に対してあれこれ言う権利があるのか。

 思考の混乱、迷い、戸惑い。

 様々な思いが胸を交差する。


 ずっと気がかりだったこと。

 結翔は忙しい身でありながら、かつてのクラスメイトに会っていた。

 在学中の友達なら当然のことだが、広瀬綾女とはどうなのか。


「……」


「……どうした? 沙羅ちゃん……俺、何か無神経なことしたか? 気になることがあったら、言って欲しい……」


「……気になることだなんて……だって……」


 私に何が言えるというのか。

 受話器を握りしめ、黙したまま時間が通り過ぎていく。


「……あ、あの……」


「何?」


 「沙羅ちゃん、たまには我儘言っていいんだよ」


 相山の言葉を思い出す。


 今がその時なのだろうか。

 言っていいのだろうか。

 だが、心にわだかまりを残したまま、かかわる間柄なら、守る価値などないのではないか。

 私は深呼吸をした後、言葉を喉から絞り出す。


「……あ、あの……この前、私見たの……広瀬さん……広瀬綾女さんと結翔さんが一緒にいるところ……ごめん……クラスメイトだったんだもの……普通のことよね?」


「お?……同窓生だもんな? ……それが?」


「……嫌なの……」


「……えっ!?」


 受話器越しに結翔の驚きが伝わる。

 何事かと思ったに違いない。


「……嫌なの……広瀬さんと結翔さんが会うこと……」


 言ってしまった。

 そうなのだ。

 理由なんてない。

 私は、結翔と綾女が会うことが嫌だったのだ。

 彼女は結翔の元クラスメイトで、私の知らない彼を知っている。

 そんな二人が、私の知らない場所で、私の知らない話をすることが嫌だった。


「……ごめんなさい……でも……嫌なの……」


 こんな無茶なことをいうなんて、自分でも信じられないことだった。

 でも、これは私の本当の気持ち。

 今伝えなければ、二度と機会はないかもしれない。

 だから、結翔にどうしても知って欲しかったのだ。


「……そか……理由はわからないけど、広瀬とはもう会わない……二人きりでは……これでいい?」


 少しの沈黙の後、結翔はあっさりと言い切った。


「広瀬には、俺が任されていた家庭教師のバイトを引き継いでもらったんだ……ほら……受験勉強中だろ? 彼女も忙しいのに引き受けてくれて助かった……生徒のことで打ち合わせしたんだ……」


 私は、自分が取り返しのつかない失態をしたことに気づいた。

 なんということ。

 自分の卑しい心根のために、受験中の結翔に負担をかけてしまった。


「……ごめんなさい……私……知らなくて……結翔さんの大切な友達なのに……」


 だが、嬉しかった。

 結翔は私の為に、迷うことなく決断してくれたのだ。

 我儘としかいいようのない要求を受け入れてくれた。


「……俺……沙羅ちゃんの嫌がることはしたくない……言ってくれてありがとう……」


 理屈の通らない我儘を聞き入れられたことが、こんなに嬉しいなど、今まで経験のないことだった。

 これでは、私に見当違いの嫉妬をした愛菜と同じではないか。


「それでいい?」


「……」


 私はどう返答したらいいかが分からなかった。

 だが、受話器から伝わる沈黙には、ほのかな温もりがあった。


「は……い……」


 こうして二人だけの約束が交わされた。


「……明日に備えて早く寝なくちゃ……」


 明日は大切な舞台が控えている。

 緊張が予想され、寝苦しい一夜を覚悟していた。

 だが、私は優しい気持ちで眠りに就いたのだった。

 




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