第17話  プリマ二人2

 鑑賞会の終了後、視聴覚室を出た時には既に午後四時を過ぎていた。

 夕焼けの空は濃紺へと景色を変え、日が暮れようとしていた。

 日没前にと、私と咲良は駅への道を急いだ。


 赤城咲良は、バレエ学校で優等生であり、公立の進学校へ通う才媛でもあった。

 文武両道とはこのことを言うのだろう。

 咲良は、彼女にとって価値のない会話には決して加わらない。

 私が鈴音や光里とおしゃべりをしている間も、一人黙々とストレッチをしていた。

 それでも、興味を抱く話題なら相手になってくれるはずだ。

 例えば、見たばかりのダンスの話とか。

 私はそれを楽しみにしていたのだ。

 沈黙を保つことは彼女にとって常だが、今日のそれはじっとりとした重さがあった。

 

「……あのさ……」

 

 咲良が口を開く。

 ぱちん。

 空気が破れる音が聞こえるようだった。


「な、なに? 咲良、深刻な顔して……あはは……」


 僅かに緊張する私を前に、咲良が話し始める。

 途切れがちな口調から、彼女が言葉を選んでいることがわかった。


「……噂だけどね……」


「噂?」


 私の知る咲良は、自分をしっかり持っていて、人に流される人間ではない。

 彼女が、噂などを気に掛けたことが意外だった。


「……来栖さん……英国に拠点を移すつもりらしい……」


「そっ、そんな! どうして?」


 信じられない。

 しかも、何故咲良はそんな話を私にするのか。


「……でね、今、英国で公演してるじゃない?……楡咲先生は大反対だった……でも、条件付きで許可したらしい……」


「……条件?」


「うん……それがね……私達の発表会の指導をすることだって……」


「そんなことが? それで私達を教えてくれたというの!?」


 発表会。

 昨年、バレエ学校では『ジゼル』を上演し、その指導を来栖が受け持ったのだ。

 世界的なプリマバレリーナが生徒の指導を受け持つ。

 私達にとって、信じられないほどの幸運だった。

 だが、来栖と楡咲の間で、そのようなやり取りがあったことにショックを受ける。


「……来栖さんは、子供時代から天才少女ともてはやされてきた……私、彼女を取材したバレエ雑誌を持ってる……コンクールにも入賞して、渡英した時には、すごく話題になった……でもね……」


 でも?

 何があったというのか。

 彼女が初主役を務めた、眠りの森の美女が成功しなかった話は聞いている。

 だが、その後欧州で認められ、奇跡の凱旋を果たし、今や世界も認めるプリマとなったのだ。

 何があったというのか。

 私は咲良の言葉に耳を傾ける。


「……先に主役を踊ったのは穂泉さんだった……来栖さんは帰国後すぐに入団して、群舞、ソリストを務めた後プリマになった……でも、穂泉さんは大学を卒業した直後だった……二十二歳の時……来栖さんとはバレエ学校の同期だったけど、来栖さんが主役になったのは、その二年後……」


「……で、でも……キャリアは、その人によって違う!」


 来栖は二十四歳で主役になった。

 決して遅くはないし、むしろ順当なルートと言える。

 舞花が特殊過ぎるのだ。


「……来栖さんは……日本にいたままだったら認められなかったって、言われている……彼女は素晴らしいダンサーよ……でもね……常に穂泉さんとの比較の対象になってきた……来栖さんがどれほど完璧なダンスを踊ろうと、穂泉さんと比べられる……」


「そ、そんな……」


 私の心は衝撃に揺れる。

 だが、何故?

 何故、この話を咲良は私にするのか。

 急によそよそしくなったのはどうしてなのか。


「……で、でも……来栖さんほどのダンサーが……」


「……来栖さんほどのダンサー……で、あっても……よ?」


 私の言葉をなぞるように咲良が呟く。

 口調は淡々としていて、感情を読み取ることはできなかった。


「楡咲の正統派は穂泉さんなの……おっとりと情緒的な芸風……個性派の来栖さんじゃない……来栖さんがどれほど努力して結果を出そうと、彼女は正当には評価されない……」


「そんな……実力があれば認められるはず!」


 力を振り絞り、私は反論を試みる。


「……同年代にスターが現れれば比べられる……そして、残りは皆、プリマの影に回されてしまう……スポットライトを浴びるのは、一人だけなんだから!」


 何故、私にその話を?

 何故、今なの?


「……私も留学をして、いつか楡咲バレエ団に入団したいと思っていた……でも、海外で踊ることを考えた方がいいかもしれない……無駄な努力は嫌なの……」


 無駄な努力?

 そんなものはないはずだ。

 才能さえあれば、誰だって認められる。

 優れたダンサーが多いほど、団にとってもいいに決まっているではないか。

 言葉が喉まで出かかるも、口にすることは出来なかった。


「沙羅が発表会で主役ジゼルに抜擢されたときから、薄々感じてた……、影の精霊で先頭に配置された時も……貴女が楡咲の伝統を踏襲しているからだって……」


 楡咲の伝統。

 愛菜の言葉を思い出す。

 あんな無責任な人の言葉に踊らされるなど、咲良らしくない。

 そう思いながらも、愛菜の言葉は無視できないものがあった。

 入学したての私にとって、これまでの配役は異例過ぎた。


「不公平……私は貴女よりもずっと、楡咲先生の近くで踊って来た……プリマになった人たちの踊りも見続けた……なのに……どうして貴女だったんだろう……どうして私じゃなかったんだろう……」


 咲良の声は徐々に小さくなり、今にも消え入りそうだった。

 彼女が唇を噛みしめると、再び沈黙が訪れた。

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