第15話  大人の恋愛(?)

 三幕。


 ニキヤを失ったソロルは憔悴し、眠れぬ夜が続いた。

 これでは、結婚式もままならぬと、召使の一人がソロルに阿片の壺を渡す。

 心慰める偽りの優しさ。

 それが彼への心遣いだった。


 ソロルは敵をも恐れぬ勇猛な戦士で、阿片に頼るなど考えもしなかった。

 そう。

 あの日まで。


 彼は恐る恐る、煙を吸い込む。

 意識が遠のき、賑やかで美しい幻覚が目の前を通り過ぎていく。

 戦果を挙げ、称えられた栄光の日々。

 美貌の婚約者、ガムザッテイ。

 記憶が走馬灯のように巡り、狂おしい歓喜が彼を満たしていった。

 騒々しいがくの音、目が眩むほどの黄金。

 全ては彼が望んだもの。


 ―― が……。


 やがて宵闇が彼を覆い、いつしかソロルは山の麓に佇んでいた。

 静寂の夜。暗闇に慈愛の光を投げかける白い月。

 悔恨に苛まれながらも、ソロルは平静を取り戻していく。

 見上げれば、山頂に白い人影が見えた。


 「ニキヤ!」


 叫んだ後、直ぐに人違いであることに気づく。

 ここは影の王国。

 白い人影は影の精霊だった。

 影の王国はソロルの作り出した幻だ。

 だが、彼の眼差しには、何かに目覚めたような真摯さがあった。

 それを見ると、これが幻覚であることを疑いたくなる。

 ソロルは阿片に溺れているだけなのだろうかと。


 三幕では、二幕の華やかさとは打って変わり、幻想的な場面が展開される。

 影の精霊の衣装は、白いクラッシック・チュチュに白いヴェール。

 ヴェールは結った髪の後ろで止められていて、両手首まで続いている。

 腕を広げれば、天女の羽衣にも、天使の羽にも見えた。

 精霊達は列をなし、アラベスクとパンシェを繰り返して、傾斜したセットを下ってくるのだ。

 白い万華鏡カレードスコープのように、フォーメーションを変化させ、観客達を魅了する。

 最も美しいと呼ばれる群舞の一つだ。


 私はレッスン中、この群舞で何度も注意を受けた。

 何かを掴んで帰りたいと、画面をじっと凝視する。

 だが、いつしか本来の目的を忘れ、白い精霊に魅入られるばかり。

 夢の国に旅立つ理性を、強引に引き戻して私は考えた。

 自分に何が足りないのか。

 何が彼女達と違うのか。

 食い入るように画面を見つめるも、答えは得られなかった。

 せっかく相山が席を設けてくれたのにと、諦めの吐息を漏らした時だった。


(……え……?)


 何かが脳裏をすり抜けていく。

 だが、それは一瞬のことで、意識の上に上ることはなかった。

 私は再び映像に視線を戻す。


 ―― ニキヤの登場。


 繊細で研ぎ澄まされた動き。しなやかな腕。細やかなステップ。

 舞花は天女のように美しかった。


 群舞は素晴らしかった。

 だが、ニキヤを踊る舞花とは比べようもないことを思い知らされる。

 彼女と並ぶ者などこの舞台にはいない。

 唯一の絶対的存在。

 それが穂泉舞花なのだ。


 言葉もなく踊り始める恋人達。

 その様は自然で、死によって引き裂かれたことを忘れさせるほどだった。


 ソロルは額に手をあて、身をかがめて跪く。

 このポーズを、ソロル役のダンサーは何度も繰り返すのだ。


 ――ニキヤとソロルのパ・ド・ドゥ。


 ニキヤとソロルが一枚のヴェールを手に踊る。

 二人を繋ぐ白い布は、死後も切れることの無い心の繋がりの象徴だと聞く。

 舞花はヴェールを手に、バランスを取りながら回転をする。

 高度な技術を要する振り付けだが、舞花は全てを難なくこなしていた。

  

 踵を上げ爪先立ち。アラベスクをしながらその場でターン。

 スローモーションのかかったような緩やかさに、絶対的な安定感。

 舞花の踊りは、動きと動きの間の一瞬に、間のようなものがあり、それが得も言われぬ情緒を醸し出していた。

 思わず感嘆のため息が零れ落ちる。



 こうして、三幕が終了したのだった。

 映像は素晴らしかったが、私は何も見つけることが出来なかった。

 


「どうだった?」


 相山がモニターの電源を切った。


「……あ、……あの……素晴らしかったです……特に、三幕……」


 でも、何も得られなかった。

 観客として鑑賞しただけで終わってしまった。


「そうだね……全てがいいけど、やっぱりバヤデールの魅力は三幕だな?」


「……は、はい……」


 かろうじて笑顔を作るも、私は相山に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


「咲良ちゃんはどうだい?」

 

 相山が咲良に問いかける。


「……素晴らしい映像でした……ありがとうございました……でも……」


 俯き言い澱む咲良。


「でも……?」


 相山が不思議そうに咲良を見た。


「あ、あの……こんなこと言ってはいけないのかもしませんが……なんか、ムシが良すぎる気がします……恋人裏切って、薬に溺れて、幻覚見て、許してもらおうだなんて……」


 彼女は興奮に顔を赤くして話を続ける。

 普段は口数が少ないのに、言い出したら止まらない性格たちのようだ。

 咲良はいつも冷静で、こんな彼女を見るのは初めてだった。


「納得できないんです……それほど後悔するなら、初めから裏切らなければいいじゃないですか……」


 “影の精霊はミルタじゃないのよ”

 

 教師の言葉が蘇る。

 咲良の不調の原因が分かった。

 ソロルに対する不寛容さだ。

 昨年の発表会では、咲良は降板するまでミルタの練習に励んでいた。

 ミルタはジゼルを裏切ったアルブレヒトへ復讐を図る、冷徹なウィリの女王。

 彼女にはミルタの方が共感できるのだろう。


 だが、私も彼女の横で大きく首を縦に振る。

 咲良の言い分は正しい。

 ソロルは余りにも不誠実過ぎた。

 こういうことを言っていると、物語の意義が崩壊してしまうのだろう。

 でも、私だってソロルは許せない。


「ははは……二人とも厳しいな……でも、無理もないか……これは大人の恋愛の物語だからな……」


 相山が困ったように言った。


「大人なら何をしてもいいんですか!? 大人だからこそ、約束を守るべきなんじゃないですか!」


 引き下がらない咲良の脇腹を、私は肘で軽くつついた。

 彼女には激しく同意だが、これでは舞台が成立しない。

 言い過ぎを自覚した咲良が、相山に小さな声で詫びた。

 相山は厚意で貴重な映像を視聴させてくれたのだから、不本意でも役作りに生かす努力をすべきなのだ。


 ……でも……私だって納得できない。


「いいさ、咲良ちゃん……君の言い分はもっともだ……俺もソロルは不甲斐ないと思う……愛を誓っておきながら、他の女性に心変わり、……挙句、阿片に逃げ込むなんて、同じ男として情けないと思う……」


 うんうんと頷く私と咲良。


「……あのさ……俺がなんで、金の仏像を踊るか分かるかい?」


 不意の問いかけに、私達は顔を見合わせる。


「あ、あの……」


「えっ……と……」


 どうして、この流れでこの話なのか。

 なんだかはぐらかされたような気がした。


「……それはね、観客の度肝を抜くためさ!」


 度肝?

 観客の?

 相山は何を言っているのか。


「全身を金色に塗って、超絶技巧を繰り返す。観客達は仏像に釘付けになる……そして、彼等の心は民衆の心でもある……豪華絢爛たる宮廷。宝玉に金と銀……王の権威は絶対で、彼の為には仏像さえも踊りだす……人々は、権力と富の前にひれ伏し、崇める……ソロルも……」


「そんなの酷い!」


 憤慨する私達に、相山は話を続ける。


「でもね……ソロルが作り上げた影の王国は、静寂の中にあったんだ……そこには地位も名誉もない。身分の差も……ニキヤは彼の女神となり、彼はニキヤに許しを請う……人は富や権力の前に、大切な事を忘れてしまうこともある……でも、影の王国はソロルの中にあったんだ……ソロルだけじゃない……観客の心にも……普段は誰も意識しない……でも、自分でも気づかない心の奥底には静けさが横たわっている……枯れることのない泉のように……」


 相山の言葉が、私の心にすとんと入って来た。

 咲良はどう受け取ったのだろうか。

 

「……だからこそ、観客は第三幕、影の王国に魅了される……郷愁っていうのかな? 忘れていたことを思い出させるんだ……」


 郷愁。

 ノスタルジア。

 故郷を懐かしむ心。

 そんな意味だ。

 観客は、影の王国に自分の知らない故郷を見るのか。


 苛立つ咲良の表情が、静かなものへと変わっていった。

 これで彼女の踊りに変化が訪れるのだろうか。

 相山の話は、私達に深い感銘を与えた。

 だが、私の問題は解決していない。

 俯き、考え込む私。


「そんな風にきれいにまとめないでよ! ただの浮気じゃない!」

 

 燻ぶった火種は完全に消し去ることはできなかった。

 火元は愛菜だった。


「……まっ、愛菜?……晴哉と何かあった?」


「何って! ……知ってるくせに……全部この子のせいじゃない!」


 吐き出すように言った後、愛菜は私を睨みつけるのだった。


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