第10話  夢から現実へ

 演出監督との面談から一週間後。

 私と咲良は、『ラ・バヤデール』のレッスンに参加するために、バレエ団を訪れた。

 ラ・バヤデールは、古代インドを舞台とした物語で、華やかな衣装、舞台装置、エキゾチックな振り付けと、魅力が満載の演目だ。

 主な登場人物は、神殿舞姫バヤデールニキヤ、彼女の恋人の戦士ソロル、

ソロルと婚約をするガムザッティの三人。

 他に「扇の踊り」「壺の踊り」などの個性的なダンスがあり、中でも男性舞踊手による「黄金の仏像ゴールデンアイドルの踊り」は、躍動感あふれるジャンプと回転で人気がある。


 上演は二月第二週の土曜日、一度限り。

 本番まで既に一か月を切っている。

 急遽決まった公演で、タイトなスケジュールの中の欠員だ。

 その穴埋めをするのが私と咲良、バレエ学校の生徒なのだ。

 私は、プロの舞台に立てる喜びに、即座に二つ返事で応じた。

 だが、時が経つにつれ、責任の重さがじわじわとのしかかるようだった。


 バレエ団の稽古場は、バレエ学校から歩いて五分ほどの駅近く、通り沿いにある。

 鉄筋コンクリート造り三階建て。屋根近くに半円形の飾り窓がある。

 意匠を凝らした鉄製の門扉は、夢の入り口のように見えた。

 憧れ続けた世界が目の前にあるのだ。


「……行こう……沙羅……」


「う、うん……」


 門をくぐりエントランスへと向かう。

 いつも冷静な咲良の表情が硬く、さすがの彼女も緊張しているように見えた。

 夢見る時間ときは終わり、私達は現実の世界へと足を踏み入れようとしていた。


 受付で名乗り、書類に署名をすると、仮の入館証が貸与された。

 後日、顔写真入りのものが正式に付与されるという。

 職員に連れられ、私達は稽古場へと足を踏み入れる。


「わぁ! 凄い!」


 感嘆の声をあげる私と咲良。


 鏡が壁一面に張り巡らされた稽古場を、天井からの照明が照らしていた。

 高い天井はのびやかな跳躍を、バレエ学校の1,5倍広い床は、ダイナミックな動きをダンサーに要求しているように思われた。

 私は、ここでプロの団員達と共に練習に励むのだ。

 やっていけるだろうかと、不安に襲われるも、私はそれを振り払う。

 

 ――良い舞台を作り上げたい。

 

 自分がすべきことは、目標に向かって進むだけなのだ。


 やがて扉の向こうから、がやがやと人の近づく気配がし、入室した団員が私と咲良を見た。


「赤城咲良です。よろしくお願いします」


「……あ、有宮沙羅です……よ、よろしくお願いします!」


 落ち着いて礼をする咲良に、つられて頭を下げる私。


「こちらこそ……急なことで大変だと思うけど、頑張って……」


 ダンサーの一人に励まされて、思わず心が緩む。

 遅れて団の教師がやって来た。


「ようこそ、有宮さん、赤城さん……よろしく……バヤデールの群舞は、アラベスクとパンシェの繰り返しから始まるの……」


 第二幕冒頭の群舞は、ラ・バヤデールの見せ場の一つで、山の中腹より『影の王国』の精霊達が下って来る場面だ。

 ダンサーは傾斜したセットの上で、ポーズを繰り返しながら、列をなして移動する。

 傾斜は、舞台の上手から下手に向かって、折れながら進み、最後は平らな舞台を移動する。

 行進のように連なる姿が、客席からは、精霊が重なり合っているように見えるのだ。

 『影の王国』は阿片に溺れたソロルが作り出した幻覚だが、白い精霊たちが連なる世界観は儚く美しい。

 数あるバレエの中、最も美しい群舞の一つとして知られている。

 この場面は、三十二人の女性舞踊手によるもので、先頭のダンサーは三十二回も同じ動きを繰り返すのだ。

 最後まで美しいポーズを保たねばならず、大変な役どころと言える。


 欠員が出たのは、先頭と七番目のダンサーだと教師は言った。

 それならば、現在二番目の人が先頭に立ち、並ぶ順番を繰り上げるのではないか。

 私と咲良は最後尾に配置される。

 憶測でしかないが、順当な考えだと思う。

 だが、その後、教師が発した言葉に団員たちが騒然となった。


「生徒さん二人には、抜けた二人の代わりに列に加わってもらいます」


 私と咲良のどちらかが、最前列になるということだ。

 強張る咲良の顔が、これが尋常な采配でないことを物語る。


「有宮さんは一番目。赤城さんには七番目に並んでもらいます」


 一瞬の沈黙の後、ざわめきが波紋のように広がっていった。


(自分が最前列だなんて!)


 あまりのことに、私はショックを受ける。

 咲良ならばまだわかる。

 彼女は子供の頃から楡咲バレエ学校で学んできたのだ。

 舞台慣れしているし、団の事情も自分より理解しているだろう。

 動揺する団員達の中から、声があがった。


「そんな! そんな大役、生徒に務まるとは思えません!」


 聞き覚えのある声に振り返れば、憤怒に顔を染めた愛菜が立っていた。

 愛菜は以前、ジゼルで共演した私と、彼女の恋人杉田との関係を疑い、バレエ学校に乗り込んできた経緯がある。

 自分に疚しいことがなくとも、緊張を強いられる相手だ。

 その彼女が臆することなく反論している。


「……楡咲先生のご決断です……」

 

 教師が楡咲の名を出した途端、愛菜が口をつぐんだ。

 楡咲の言葉は絶対。

 誰も異を唱えることは出来ない。私も。

 私には無理です。

 誰か他の人にしてください。

 心で叫ぶも、従うしかなかった。


「……まずは、影の精霊の登場から……」


 ダンサー達は、列を作り準備のポーズプレパラシオン

 私は先頭に立ち、二番目は誰なのだろうかと、さりげなく後ろを振り返った。

 本来ならば、その人が先頭を務めることが相応しい。

 申し訳ない思いで、背後に立つダンサーを顧みれば、黒髪、細面の落ち着いた感じの人だった。

 彼女は私と目が合うと、少し困ったような笑顔を浮かべた。


「……よ、よろしくお願いします……」


 ぎこちなく挨拶をし、ポーズを取り直す。


「それでは、音楽に合わせて……有宮さんも、赤城さんも……ほかの人と動きをそろえてください」


 「はい」と返事をする咲良と私。


 緩やかで優しい旋律に合せ、私はアラベスクをする。

 前に進んで、右腕をアン・オー(上)にし、上体を反らす。

 移動して、再びアラベスク。プリエをしながらパンシェ。

 ひたすらそれを繰り返すのだ。

 指の先、足の先まで気を配り、美しいポーズを最後まで保たなくてはならない。

 そして、五回目のアラベスクを終えた時だった。


「有宮さん! 周りの人に合せて!」


「……は、はい……」


 突如、指摘を受け焦る。

 自分は周囲に合せていたつもりだったのに、出来ていなかったのだ。

 もっと注意を払わなくてはならない。

 気持ちを切り替え、再びステップを繰り返すが、


「有宮さん! もっと合わせて!」


 同じ注意を受けてしまった。


 その後、この場面の練習が再び繰り返されたが、私は何度も同じ指摘を受けた。

 注意をされているのは咲良もだった。


「もっと優しく! これはミルタじゃないのよ?」


 ミルタというのは、ジゼルに登場する精霊の女王で、迷い込んだ男を死ぬまで踊らせる。

 薬に溺れたソロルが作り出した『影の王国』とは対照的な役柄だ。

 昨年ミルタを踊り続けた咲良にとって、踊り分けが難しいのかもしれない。


 「有宮さん、もっと合わせて」

 「赤城さん、優しく(ミルタじゃないんだから)」

 

 それぞれ指摘こそ違え、どちらも具体的ではなく、私同様咲良も困惑していることだろう。

 これでは、どこをどう直せばいいのかがわからない。

 私達は、初めから壁にぶつかってしまったようだった。

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