第9話 抜擢2
教師に呼び出され、私と咲良は事務室横にある校長室へと向かった。
来訪者達は、ソファーに座り私達を待っていた。
「初めまして。赤城咲良です……」
「あ、有宮沙羅です……は、はじめまして……」
咲良に倣い慌てて私は慌てて頭を下げる。
二人連れの男性は牧田慎吾、女性は島村洋子と名乗った。
牧田はバレエ団の演出監督、島村はその助手だという。
「初めまして……さぁ、そんなところに立っていないで、座ってください……」
牧田が私達に椅子をすすめた。
「ありがとうございます」
二人が腰掛けると、牧田が話し始めた。
「突然のことで、驚かせてしまいましたね……実は、今回アクシデントに見舞われまして……ご相談に参りました……」
アクシデント。
私達に相談。
一体何が起こったというのか。
不安と共に、期待のようなものが、心の奥に芽生え始める。
「来月、臨時公演が上演されます……二部形式のバレエコンサートです。一部が『ラ・バヤデール三幕』、二部はガラコンサート……ご存じでしたか?」
「……いいえ……」
咲良が落ち着いた様子で答え、私は黙したまま俯いた。
「……二人に相談というのは……実は、
一瞬の間。
私は、じっと牧田が話し始めるのを待った。
「……それで……バレエ学校の生徒の中から選抜したらどうかという話が持ち上がりました……」
どきん。
心臓が早鐘のように打つ。
「昨年の十二月の発表会を見た指導陣の意見です……突然お邪魔して申し訳ありませんでした……それで……レッスンを見学させて頂いた結果、有宮さんと赤城さんが適任と判断しました……」
プロの舞台に私が!?
しかも、憧れの楡咲バレエ団の舞台だ。
興奮に体を震わせながら、私は牧田の話に耳を傾ける。
「……選考の基準は、基礎が身についていること……これは楡咲の生徒は問題ありませんでした……今日はそれを目の当たりに出来て嬉しかった……」
先刻のレッスンを思い浮かべているのだろうか。
牧田が満足そうに微笑む。
「……それから……最後まで美しいポーズが保てる持久力……影の精霊の踊りは、同じポーズを何度も繰り返します。特に、先頭のダンサーにいたっては、三十二回も……です……最後まで踊りぬく耐久性が求められます……」
基礎的な動きを繰り返すことでポジションの正確さを、連続するポーズで持久力を図っていたのだ。
「そして……他のメンバーとのバランス……身長や体格ですね……一糸乱れぬ群舞には欠かせない要素です……」
身長。体格……。
メンバーによって、あるいは演出でも変化する、あまりにも不安定で、それでいて絶対的な条件だ。
「……必要なのは体力や技術だけではありません……影の王国は阿片に溺れたソロルが作り上げた幻です……それでいて、この上なく美しい……その世界観を理解し、表現しなくてはなりません……群舞とはいえ、大変難しい役です……」
牧田は一息つくと、咲良と私を見た。
「……引き受けて頂けますか? 有宮さん?」
「は、はい!」
牧田の問いかけに、声を上ずらせながらも即答する。
学生の身である自分に、こんなに早くチャンスが訪れるなんて夢のようだ。
「……赤城さんは?」
「ありがとうございます……無事に役割が務められますよう、努力いたします……」
咲良が淡々と返答をする。
牧田と島村が顔を見合わせ頷き、島村がスケジュールの説明を始める。
レッスンは来週から。場所はバレエ団の稽古場。時間は五時半より。
この時間に行われるのは、群舞のレッスンのみで、主役、ソリスト、ガラコンサートのメンバーには、昼の時間帯を確保しているという。
「よろしくお願いします」と頭を下げ、私達は校長室を出た。
門を出ると、暮れ始めた空に星が小さく瞬いていた。
「……それにしても……こんな風にチャンスが来るなんて……」
舞花から公演の話を聞いたのは、ほんの数週間前の事。
あの時の私は、観客として劇場を訪れるつもりだった。
それなのに……まさか自分が舞台に立つなんて!
まるで夢のようだ。現実とは思えない。
だが、夢見心地の私を、咲良の言葉が現実に引き戻した。
「私は怪我でミルタを降板したけど、自分も他人の不都合で、プロの舞台に立てる……」
「……咲良!……そんな……」
そんな言い方をするなんて、と言いかけ、私は口をつぐむ。
『ジゼル』の公演の時、咲良は怪我をし、ミルタ役が光里に引き継がれたという経緯がある。
その悔しさを思えば、私が彼女に何かを言うことなど出来はしない。
彼女の言い分は正しく、チャンスは思わぬ形でやって来るのだ。
少し前の咲良の泰然とした姿を思い出す。
咲良には既に心構えが出来ていたのかもしれない。
ミルタ役を降りたものの、回復後はレッスンに励み、速やかに復調を果たした。
レッスンを休めば、結果はすぐに踊りに現れ、体も衰える。
咲良の短期間での復帰は、目を見張るものがあった。
「……沙羅……貴女はジゼルで評価された……でも……プロの舞台は厳しい……」
「……わかってる……」
わかっている。
わかっているつもりだ。
だが、自分はどれほどその厳しさを理解しているというのか。
趣味の延長のままバレエを続けた自分と違い、咲良は幼い頃より、楡咲バレエ学校で学んできた。
心構えは私など到底およばないのかもしれない。
それでも前に進むしかないのだ。
(頑張ろう!)
私は心に誓うのだった。
帰宅後、私は結翔に今日の出来事を、メッセージで送った。
本当は自分の声で伝えたかったが、彼は受験間近で、時間を奪うことが
だが、その配慮も、一本の電話で無駄になる。
「おめでとう、沙羅ちゃん!」
「ありがとう……でも、いいの? 勉強?」
「こんないい話を聞いちゃそれどころじゃないだろ?」
電光石火のコールバックに、私はメッセージを送ったことを後悔する。
「……それにしても……沙羅ちゃんは、どんどん前に進んでいく……俺は、振り出しに戻ったというのに……」
結翔の声がやや沈んでいる。
松坂との件だろうか。
彼の背負うものは、私には想像できないほど重い。
だから私は、彼が江ノ島で子供のようにはしゃぐ姿を見て安心したのだ。
“どうしても初日の出が見たい”と駄々をこねたのは、せめてもの彼の意思表示だったのかもしれない。
「……あ、あの……結翔さん……また、お出かけしましょう……受験が終わったら……舞台が終わったら……」
「……お、おう?」
「行きたいところを決めておいてください! 私も考えます……」
「……」
電話の向こうの声が途切れた。
「……結翔さん……?」
答えを待つ僅かな間が、ひどく長く感じられた。
「……ありがとう……」
結翔がぽつりとつぶやく。
「……お出かけしましょう……でも、今夜はもう、休まないと……」
「そうだね……おやすみ……沙羅ちゃん……」
「おやすみなさい……」
不思議。
結翔を案じながらも、心が暖かくなっている。
こうして短い会話が終わり、夜が更けていくのだった。
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