第8話  抜擢1

 三が日が過ぎ、家々の松飾りが姿を隠した日、冬休みは終わった。

 それと同時に、放課後にはバレエ学校へと向かう日々が始まる。

 私はレッスンバッグを肩に、バレエ学校へと向かう。

 バッグにつるしたテディベアと目が合い、にまりと頬が緩む。

 一人悦に入る姿を誰かに見られていないかと、そっと周りを見渡すも、道行く人は目的地へと急ぐばかり。

 ほっと安堵した後、再びテディベアをチラ見して、金色の巻き毛に心がほっこりする私。

 もちろんテディベアは可愛い。

 でも、結翔からのプレゼントであることが嬉しいのだ。

 贈り物をし合う相手がいるのは、何て素敵なことだろう。

 結翔も私が贈った手帳を喜んでくれた。

 また何か機会がないだろうか。

 まずは結翔の入学祝いだろう。

 そのためには、会えなくても不満を抱いたりしてはいけないのだ。

 「結翔が受験に合格しますように」 

 私は、そっと金色の子熊に祈るのだった

 

 初レッスンの日、運動不足とクリスマスや正月の食生活のせいで、しばらくは体が思うように動かず、私も他のレッスン生も苦戦を余儀なくされた。

 だが、時間の経過と共に、生徒達は本来の力を取り戻していった。

 こうして、レッスン開始から一週間が経った日のことだった。


「沙羅!」


「鈴音! 光里!」


 いつものように挨拶が交わされる。

 そして……。


「かわいい、……その、テディベア……」


 鈴音が、レッスンバッグにつけたテディベアのキーホルダーを凝視する。


「そ、そう……? あはは……」


 彼女は、この小さな熊の飾りが気になって仕方がないらしい。

 

「うん! 沙羅がバッグにキーホルダーやチャームを付けてるの見たことないもん……」


 と、彼女の視線は5cm仔熊に釘付けだ。

 初めてバッグにテディベアを付けてから、既に一週間が過ぎたというのに、彼女の関心が薄れることはないようだ。

 

「だって、沙羅の飾りはそれだけ……ワンポイントって、すごく目を引く……」


 と、興味津々にバッグを見つめる。


「えっと……レッスン始まっちゃう……そろそろ着替えないと……」


 好奇の視線を背に、更衣室で着替えて、鈴音、光里と並んでバーにつく。

 二人と喋りながらストレッチをしていると、いつもより早く教師が現れた。


「……どうしたのかしら?」


「う、うん……」


 ひそひそと話をするも、視線は教師へと向かう。

 彼女の表情(かお)には緊張が見られ、何かが起こりそうな予感がした。

 そして、教師が硬い口調で語り始める。


「……皆さん……今日はバレエ団の方がお見えになります……でも……貴女達はいつも通り……いつも通りにレッスンをしてください……」


 “いつも通り”を繰り返されると、いっそう緊迫感が高まる。

 やがて、教師が一組の男女をレッスン場へと招き入れた。

 二人は私達に会釈をした後、壁に沿うように静かに立った。

 瞬間、誰かが息を飲む音が聞こえた。

 きっと、名の知れた団の関係者なのだ。

 生徒達は動揺を押し隠し、無言のままバーにつく。

 まずは一番ポジションで、音楽を待つ準備のポーズプレパラシオン

 両足の踵を付け、膝を伸ばし、爪先を外に向けた状態で立つ。

 そして、膝をゆっくりと曲げる“プリエ”を始める。

 何かが起ころうとしている。

 予感に心揺れるも、背筋を伸ばし、迷いを振り切る。

 日々のレッスンは貴重で、決して気を抜いてはならないのだから。

 

 バーレッスンが終われば、バーを離れてセンターレッスン。

 数種類の練習の後、アダージョが始まる。

 アダージョは、移動の無い緩やかな動きのこと。

 音楽が奏でられ、教師の指示のもと、私達は踊り始める。


「一番ポジションからプリエをして……曲げた膝を伸ばして立って……爪先立ちをしながら、片足に重心を移して……その足にもう片方の足を引き寄せて……一本の線に見えるように……上げた踵をおろして五番ポジション……それから、ク・ドゥ・ピエ……」


 両足の踵と爪先が合わさるように立つ“五番ポジション”。

 軸足の足首に、もう片方の足を付ける“ク・ドゥ・ピエ”。

 ク・ドゥ・ピエした足の爪先を軸足に添わせるように膝まで引き上げ、その足をドゥ・ヴァン(前)に伸ばす。


「……いいですよ……上げた足を横に回して……高さをキープしたまま……爪先を膝につけて……」


 基本的なポーズの繰り返しだが、連続した動きは途切れることがない。


「……その足をアチチュードにして……静止ポーズ……」


 “アチチュード”は膝を90度に曲げ、後ろに上げるポーズ。


「……そのまま膝を後ろに伸ばして……アラベスク……腕の動きポールドブラも丁寧に……」


 シンプルな動きは、ダンサーの基礎力をあらわにする。

 まるで、私達の実力を推し量るかのように。

 “いつも通り”と、教師は言ったが、何かが違う。

 振り付けには、ステップも回転も無く、流れるようなポーズが延々と続く。

 それが体力と気力を奪っていくのだ。


 アラベスクで上体を前に傾け、後ろ足をさらに上げる“パンシェ”。

 最期は五番ポジションでポーズ。

 時間は二分間程度で、普段より長いアダージョだった。


「キッツ―! すっごい汗! プールに飛び込んだみたい!」


「ホントー! 最後の方バテて踊れてなかったかも!」


 結果はどうであれ、出来る限りのことはしたのだから、少女達の声は明るく屈託がない。

 だが、前方に目をやると、俯き唇を噛みしめる生徒が二人。

 前後の対照的な光景に、戸惑いながら周囲を見渡せば、赤城咲良の姿が目に入った。

 彼女は誰かを労うことも、嘆くこともなく静かに佇んでいた。

 咲良の泰然とした様子に、私は違和感を覚える。


「沙羅、しんどかったね!」

 

 振り返れば、鈴音とその横で頷く光里。

 苦しい呼吸を整えながら、私は自らを省みる。

 ポジションは守られていたか。足の高さはキープ出来ていたか。体力は

は保たれていたか。

 最後まで踊り切れていたのだろうかと。

 どんな状況であろうと、自分に負け、踊りが疎かになるのは嫌だった。


 来訪者達は小声で教師と話し合っていた。

 何を話しているのだろうか。


(……いけない……レッスンはまだ終わってない……集中しないと……)


 頭を切り替え、私は再び練習に打ち込む。

 今は踊ることだけを考えるべきなのだから。


 レッスンの終わりに、ルべランスをした時だった。


「……沙羅ちゃん……咲良ちゃん……ちょっと……」


 教師に名を呼ばれ、私と咲良は顔を見合わせた。

 


 

 




 

 





 

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