第6話 江ノ島で初日の出
――ピピピ……
ベッドから腕を伸ばし、瞬時にアラームを止める。
一月一日、午前三時。新しい年の始まりの日。
部屋はまだ暗く、ベッドサイドの明かりを灯す。
暖房のタイマーをセットしておいたために、室内は程よく暖かい。
白いセーターにボックススカート。コートを羽織り、リュックサックを片肩に掛けた。
ウールのマフラーを手に、家人が寝静まる階段をそろりそろりと、忍び足で降り、玄関に辿り着いた。
「……沙羅ちゃん……おめでとう……」
囁く声に振り返ると、身なりを整えた母が立っていた。
「お、おめでとう……ママ……ごめん……起こしちゃった?」
私は昨夜、十時に就寝したため、新年の挨拶を家族の誰ともしていなかった。
「大丈夫……車で送る……」
私は母の車で最寄り駅に到着した。
「送ってくれてありがとう……」
礼を言うと、
「これ、渡しておくわね……」
小さな紙袋を掌に乗せられる。
「……えっと……何?」
「お腹が空いたら食べなさい……でも、まっすぐ帰って来るのよ……お雑煮とおせちを一緒に食べましょう……パパと待ってるから……」
「ありがとう……」
「……それに……ね?」
首を傾け、母がにまにまと笑う。
「……いっ、行ってきます!」
慌てて紙袋をリュックに詰め込み、車外に出れば、未明の空に星が瞬いていた。
「……さ……む……」
身を縮め、マフラーを高く巻き直しながら、始発を待つ。
結翔と東京駅で待ち合わせているのだ。
「沙羅ちゃん!」
東海道線のホームに辿り着くと、私を見つけた結翔が大きく手を振った。
彼は、タートルネックのセーターに紺色のジャケットを着ていた。
「結翔さん!」
私が結翔の元へと駆け寄ると、そのまま小田原行の車両に乗り込んだ。
「新年おめでとう、沙羅ちゃん!」
「おめでとうございます……結翔さん……」
「こんなに朝早く、寒かったろ?……暗い中、無理させちゃった……」
「ううん……駅まで母が送ってくれました……」
新しい年が始まったばかりの朝に、結翔と会うことができたのだ。
少しくらいの早起きなど、どうということもない。
藤沢で乗り換え、江ノ電に乗る。
窓外は未だ暗く、早朝にもかかわらず車内は混雑していた。
私達は身を寄せ合うように立ち、車両が揺れると、結翔がかばうように両腕で支えてくれた。
「大丈夫?」
「……あ、ありがとう……大丈夫です……」
抱きかかえられたまま礼を言う。
混んだ車内では身動きが出来ない。
結翔に身を寄せれば、彼の体温と規則正しい鼓動が伝わり、心が安らいでいく。
母親にあやされる子供のように、いつまでもそうしていたかった。
やがて江ノ電は目的地へと到着した。
『江ノ島駅』
「やった! 着いた!」
結翔は待ちかねたように、改札へと向かって走り出す。
そんなに急がなくても、海は逃げないし、時間はまだあるのに。
少しは急ぐ必要はあるかもしれないが。
そう。私達は片瀬江ノ島海岸に初日の出を見に来たのだ。
日の出時刻は六時五十分。
駅に到着したのは、その二十分前だった。
言い出したのは結翔。
受験間近の結翔に、遠出は避けるようにと私は主張したが、彼にしては珍しく頑なに譲らなかった。
「絶対に初日の出を見に行く! 絶対に行く!」と、駄々をこねられた時には本当に困ってしまった。
でも……。
子供のようにはしゃぐ結翔を見ると、これで良かったのだと思えてきた。
たまには遠出をした方が、きっと勉強の効率もあがるだろう。
人々が列をなし、海岸へと向かう。
砂浜に立てば、既に空は白み、遠くに江ノ島が見える。
水平線上の雲は仄かな
オレンジ色の光が波間に揺れ、やがて太陽が姿を現すと、眩い光が世界を塗り変えていった。
新しい年。
新しい朝。
期待に胸を弾ませ、私はその光景に魅入られていた。
日が昇り切ると、人々は徐々に次の目的地へと移動していった。
私達も、彼等に倣うように砂浜を歩き始める。
「結翔さん……行きたい所があるの……」
「どこ?」
「うん……少し歩くけど、……三十分くらい……江ノ電で移動もできるけど……」
今朝は歩きたい気分だった。
「そか……どこだろう? 楽しみだ……」
首を傾げながら、結翔がくしゃりと笑う。
今年初めての天使の笑顔だ。
二人で歩く砂浜。天気は穏やかで、白い波が繰り返し打ち寄せる。
時折、波打ち際に近づいては逃げる結翔に、それを見て笑う私。
吹く風の冷たさに震えるも、潮の香りが心地よい。
「沙羅ちゃん……頬が赤くなってる……鼻の頭も……」
「結翔さんだって……風が冷たいせいね……」
互いに微笑む二人。
彼の受験の事を考えると不謹慎な気もするが、やはり来て良かったと思う。
砂浜を離れ、海沿いの道“国道134”を歩いた。
そうするうちに、私達は檸檬色の建物の前に辿り着いた。
「……えっと?……日本バレエ……発祥の地……?」
結翔が首を傾げながら、壁に浮き彫りにされた文字を読んだ。
『日本バレエ発祥の地』
キエフ出身のバレリーナ、ナデジタ・パブロワが、鎌倉七里ガ浜に日本初のバレエの稽古場を開設した場所だ。
彼女の死後、『七里ガ浜パブロワ館』として遺品のトゥシューズ、衣装、ピアノなどが展示されていたが、1996年に閉鎖された。
現在は個人の邸宅となり、『日本バレエ発祥之地』という記念碑だけが残された。
南欧風の瀟洒な建物は、ダンサーを志す者、バレエを愛する人々を迎え入れてきた。
自分もその一人なのだと思うと、心が引き締まる思いだ。
誰のためにというわけでもなく一礼し、私は結翔と共にその場を離れた。
「……ありがとう……結翔さん……ここ、一度来たかったんです……」
「どういたしまして」と結翔。
『日本バレエ発祥の地』から七里ガ浜駅までは、歩いて三分ほどだった。
駅に着いたのは八時少し前で、今からなら十時には家に到着する。
遅い朝食をとるには程良い時間だろう。
だが……。
「あ、あの……結翔さん? お腹空きません?」
「う……ん……何も食べないで家を出たから……」
「ごめんなさい……付き合わせちゃって……母から渡されたものがあるんです……」
そうなのだ。
二人とも、朝暗い時間に起床し、ここまで何も食べずに来たのだ。
一緒にお節を食べるにしても、帰宅までにはまだ間がある。
ホームのベンチに腰掛け、包みを開けると、サンドイッチが出てきた。
「ハムとレタスのサンドイッチ……」
小腹を満たすに丁度良い分量で、ひと先ず空腹がしのげる。
母はこれを作るために、私よりも早く起きていたのだ。
「旨そう……あ、俺、コーヒー買ってくる!」
結翔は自販機まで走って行き、直ぐに缶コーヒーを持って戻って来た。
「熱いから気を付けて」
「……ありがとう……」
差し出された缶を、恐る恐る手にする。
「……温かい……」
冷たい外気に、缶は程よい温もりに冷めていた。
私は掌で包むようにそれを持ち、凍えた指先を温める。
ベンチで次の電車を待ちながら、慌ててサンドイッチを頬張り、コーヒーを飲んだ。
少々行儀が悪いが、背に腹は代えられない。
朝早い海辺の町。駅のホーム。
こうして、空腹を満たした私達は、帰路に就くのだった。
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