第34話  おかえりなさい

 十二月第二週の土曜日の正午。

 私は、ロンドンへ向かう来栖を見送るために、羽田空港にいた。


「発表会ではお世話になりました! ……勉強になりました……」


 笑顔で見送りたいのに、目頭がじんと熱くなる。


 来栖の英国滞在は約半年。

 渡英が決定した当時は三か月間の契約だったが、『眠りの森の美女』以外の古典作品に出演することが急遽決まったのだ。

 当分会うことも、彼女の姿を舞台で見ることも出来ない。


「……いいえ、沙羅が頑張ったから……私の力じゃない……これからどうするつもり?」


「来栖さんのアドバイス通り、まずはスカラシップを目標にして、コンクールに出場します」


「そう、よかった! ぜひ、そうなさい!」


「私……今まで踊ったことの無い作品にも挑戦したい……人にも、自分と考えの違う人と交流を持って……自分がどんなダンサーになりたいかを考えたいんです!」


「沙羅、成長した……初めて会った時と全然違う……貴女には才能がある……頑張りなさい……」


「はい!」


 明るく返事をするも、涙腺は崩壊寸前だ。


「それじゃ……元気で……」


 来栖が背を向けた途端、私は涙を堪えられなくなっていた。

 来栖夕舞。

 世界が認める素晴らしいプリマ。

 来栖と関われたことは、奇跡と言っていいだろう。

 何の経験も実績もない私に、彼女は真摯に接してくれた。

 感謝してもしきれない。

 涙でぼやける視界の中、来栖の姿が小さくなっていく。

 結えるぎりぎりまで段を入れたレイヤードヘア。

 染めた栗色の髪は光に透け、王者のマントさながらに翻る。

 私はその場に立ち尽くし、見えなくなるまで見送っていた。



 電車で帰路につく中、私は空中庭園のことを思った。

 季節は既に冬だった。

 結翔が戻ってきても、当分あそこで勉強をすることは出来ない。

 だが、場所の問題ではない。何所であろうと、一日も早く彼の笑顔が見たいのだ。

 駅からの道を歩くと、遠くに家の輪郭が見えてきた。


(……人影……?)


 空中庭園に人がいる!

 突如、私は走り出し、自宅へと急ぐ。

 玄関を開けると、母に帰宅の挨拶をすることなく、空中庭園への階段を駆け上った。


 見慣れたオリーブの木、花壇に花。

 そしてガゼボには……。


「結翔さん!」


「やあ、沙羅ちゃん! 走って来たの? 大丈夫? こんなに寒いのに顔を真っ赤にして……」


 結翔が私を案じている。自分はいつも彼に心配をかけてばかり。

 でも、……何故こんな時に、そんなに冷静に私を観察するのだろうか。

 私がこんなに取り乱しているのに。

 天使の笑顔が能天気に見え、苛立ちが今にも爆発しそうだ。


「……沙羅ちゃん?」


「どうして……どうして、前もって教えてくれなかったんですか!」


 私は興奮したまま、自分の気持ちを結翔にぶつける。

 彼には私がどれほどこの時を待っていたか、わからないのだろうか。

 これは見当違いの八つ当たりでしかない。

 でも、そうせずにはいられなかった。


「……ごめん……急に片が付いたんだ……結果が出るまで迂闊なことは言えないし……そんなに怒るなんて思わなかった……」


 違う……。

 私が口にすべきは、怒りの言葉ではないはずだ。

 本当に言いたかったこと。本当の気持ち。

 私がいま伝えるべきこと。


 深呼吸をして気持ちを静める。




「……おかえりなさい……」




「ただいま……沙羅ちゃん……」


 結翔が、そっと私の肩を抱いた。


「……温かい……」


「うん……」


 冷たい風吹く冬の昼下がり、結翔と私は静かに寄り添っていた。


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