第32話  告白 ー大聖堂の鐘ー  

 結翔が何かを語ろうとしている。

 私は彼の話に耳を傾ける。

 

 俺がフランスとスペインの国境にある街、サン・ジャン・ピエ・ド・ポーに到着したのは、八月も後十日で終わるという日だった。

 この街に一泊した後、ピレネー山脈を越えてスペインに入る。

 朝暗いうちに宿を出て昼まで歩くが、日差しは強かった。

 携帯した水で渇きを癒しながら旅を続け、それを繰り返す。


 羊が草をむ牧草地帯、収穫の終わった麦畑、何もない田舎道……。

 延々と続く道を一人で歩くんだ。


 食事は美味しかったし、大きな街では観光もできた。

 アルベルゲで気の合う旅人に会って、会話が弾んだ日もあった。

 でも、一人なんだ。


 出発は早いから、夜は早く休む。

 物音ひとつ聞こえない閑散とした街もあった。


 そんな時はね、いろいろなことを思い出してしまう。

 それも良くない事ばかり。


 留年してしまったこと、母への態度、紬を苦しめてしまったこと。

 失ってしまった信頼、これから待ち受ける大学受験、父の事業の継承問題。

 過去の後悔と、将来に対する不安が交互に押し寄せた。

 テレビも雑誌もない。会話をする相手もいない。

 気を紛らわすものが無いということが、こんなに辛いものだと知らなかった。


 無理のない計画に沿って歩いていたけど、疲労は日々蓄積していく。

 体調を崩し、宿で何もせずに休んでいた日もあった。

 なす術もなく天井を眺めて過ごしたんだ……。


 結翔の告白は、私に強い衝撃を与えた。

 送られてきた画像では、彼は楽しそうに笑っていた。

 自分は、結翔が巡礼の旅を満喫していたものだと信じて疑わなかった。

 ……それなのに……彼は苦悩を抱えて、過酷な旅を続けていたのだ。

 結翔の気持ちを思うと、胸の奥がじんと痛くなる。



 ……それでも歩き続けた。

 朝が来れば支度をし、体が自然に旅を続ける。

 周囲を見回しても、変わらぬ景色が続くばかり。


 最後の頃は何も考えていなかった。

 頭の中は空っぽになっていたと思う。


 そして、とうとうサンティアゴ=デ=コンポステーラの街に辿り着いたんだ。

 引きずるように足を運び、大聖堂へと向かう。


 鐘の音がして、俺は吸い込まれるように聖堂へと入っていった。


 天井から巨大な香炉が吊るされていて、それが振り子のように揺れていた。

 パイプオルガンの音色と聖歌の流れる中、香炉が揺れ、聖堂が煙に満たされていた。

 聖堂の高窓から差し込む光が神秘的で、俺は忽然となった。

 旅の疲れのせいだったと思う。

 俺は疲弊し切っていたし、その日は格段に暑かった。

 早く宿を見つけて休まなくてはと思いながらも、その場を離れられずにいた。

 親切そうな女の人が、香炉が良く見えるようにと、俺に場所を譲ってくれた。

 彼女の笑顔を俺は忘れることはないだろう。


 その時……。

 その時、俺は……初めて……。



 

 ――初めて母の冥福を祈ったんだ。




 ずっと後悔してきた。

 母にすまないと思っていた。紬にも。

 でも、俺は自分のことしか考えていなかったんだ。


 悔やむばかりで、母がどうすれば喜ぶか、紬が幸せになれるかを考えないでいたんだ。

 バイトも、巡礼に出たいという夢も、逃げでしかなかった。

 俺はすべきことをしてこなかった。

 そのことに初めて気づいたんだ。


 疲れ切った俺は独りになれる宿を探した。

 どこも満室で、ようやく見つけた部屋は、狭く粗末なものだった。

 俺はその夜、ぐっすり眠ることができた。

 ベッドは硬く窮屈だったけど、少しも気にならなかった。

 重い体を横たえると、睡魔に引き込まれるように眠り込んだ。

 巡礼を始めてから、俺は夜と孤独を恐れるようになった。

 でも、暗闇が、静けさが、この上なく優しいことを初めて知った。


 翌日、窓から差し込む朝日で目覚めた。

 窓を開け、街が暗闇から光へと塗り替えられていく様を眺めていた。

 美しいと思ったよ……。


 

 結翔の話はそこで途切れた。

 でも、まだ終わってはいない。

 彼は言葉を探し、選んでいる。

 私は何時までも待つつもりだった。


 やがて……結翔が口を開く。


「……その頃からかな……将来のことを前向きに考えられるようになったのは……行動する気力も持てるようになった……」


 それだけ言うと、結翔は俯き黙り込んだ。


(……不思議な話……)


 私が感じた結翔の変化は誤りではなかった。

 私が察した以上に、結翔自身が強く自覚していたのだ。

 彼は変わった。

 良い方に。


(……巡礼のせい?)


 まさか!

 私は自分自身を戒める。

 そんな簡単な問題ではないはずだ。


 きっと、見知らぬ土地での経験や苦労が、彼に良い刺激を与えたのだ。

 旅の疲れも影響しただろう。

 きっとそう。

 それならば納得できる。


 ……でも……何と返答をすればいいかが分からない。

 「良かったですね」というのは軽々しい。

 「巡礼のおかげですね」も妙だ。


 互いに無言で見つめ合う中、先に沈黙を破ったのは結翔だった。


「……沙羅ちゃん……聞いてくれてありがとう……誰かに話したかったんだ……」


 『聖年』に巡礼をすれば、全ての罪が許されると言われている。

 でも、そもそも結翔に罪などあったのか。あるとすれば何だったのか。

 それすらも定かではないのだ。


 きっと、結翔はこの信じ難い話を、私以外の誰にもしないだろう。

 誰にも言えず、自分だけに打ち明けてくれたのだ。

 結翔が何を経験したのかは、私の理解に及ばぬことだ。

 でも、結翔は私に心を開き話してくれた。

 それが何よりも嬉しい。


「……話してくれてありがとう……良い巡礼になってよかったですね……」


「ありがとう……あ、今日はこれで失礼する……せっかく食事に誘ってくれたのにごめん……でも、近いうちにスペイン語のレッスンを再開するから……」


「本当ですか!」


「本当さ……でも、あと少し待って欲しい……」


 彼は何かを成し遂げようとしている。

 私はそれを信じて待てばよい。


「はい! 待ってます!」


 返事をすると、結翔がくしゃりと笑った。

 

 

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