第22話 北風
楡咲バレエ団の男性ソリストが練習に加わり、一週間が経過した。
十一月第四週、月曜日の朝。
目を覚ますと、時計は七時を指していた。
「いけない! 寝坊しちゃった!」
体の疲れと、日が短くなったせいだろうか。
今までは、目覚まし時計をかけなくても、周囲が明るくなると自然に目覚めていたのに……。
階段を駆け下りると、朝食の支度が整えられていて、私はそれを食べ始める。
このまま家を出れば遅刻はしないが、お弁当は作ることができない。
昼食は学食か、購買部でパンを買って食べることにした。
コートを羽織り、マフラーと手袋を身に着け、玄関へと走り出る。
「待って、沙羅ちゃん、これ!」
母に四角い包みを手渡される。
布に包まれたそれは、手にすると程よい重さと温もりがあった。
「……お弁当?」
「そうよ、体力を使うのだから、しっかり食べないと!」
父は私がバレエを続けることを良く思っていない。
発表会の練習疲れで、弁当を作れなくなったと知ったら、より反感が強まるだろう。
父は既に外出していて、母は彼に内緒で弁当を作ったのだろうか。
「さあ、持っていきなさい……貴女はとても頑張っている……今は、発表会に専念しないと……これから当分、お弁当は私が作るから……」
「……で、でも……」
「……ね? 沙羅ちゃん、そうしなさい?」
私を見つめる優しい瞳。
母は今まで私がバレエを続ける助けをしてくれていた。
……今も……。
感謝をしてもしきれない。
「ありがとう! 頑張る!」
私は礼を言いながら家を飛び出した。
放課後は真っすぐに練習へと向かう。
電車が珍しく空いていて座ることが出来た。
暖房の効いた座席は心地よく、冷えた体がほぐれていく。
イヤホンを耳にし、プレイヤーのスイッチを入れる。
ジゼル二幕のパ・ド・ドゥの音楽だ。
ヴィオラの奏でる旋律。
命の危険に怯えながらも、束の間の逢瀬に身を焦がす二人。
会えた喜び、ウィリに身をやつした悲しみ。
甘く哀しいメロディーは、妖精囁く夜の森へと私を
ジゼルの振りを思い浮かべながら、私はいつしかうたた寝をしていた。
「や、やだ! 降りなきゃ!」
気付けば列車は最寄り駅に到着していた。
驚き跳ね起きると、閉じかけのドアからホームへ飛び出す。
「……危なかった……寝過ごすところだった……」
息を切らして道を急げば、到着早々、レッスンが開始される。
バーにつき、
基礎レッスンは誰もが同じ。
プリマもソリストも
決して欠かすことなく繰り返されるのだ。
「じゃあ、今日は村娘の群舞から、それから、ペザント、その後沙羅と杉田君のパ・ド・ドゥ……」
発表会まで後十日を切った。
レッスンに一層熱が入り、それと共に生徒たちの表情に疲労の色が見える。
もう、二か月近くこんな生活を続けているのだから無理もない。
皆、学校とレッスンを両立しているのだから。
焦りもあるだろう。
それぞれが自分の理想を描き、近づこうとしている。
与えられた時間は短く、発表会までに到達できるか分からない。
私自身も……。
来栖の要求は高く、その度に自分の無力さを思い知らされる。
自分の実力に限界を感じ、不安と恐れが胸に渦巻く。
だが……。
レッスンに励む仲間が私に力を与える。
誰もが全力を尽くして踊っている。
室内は物凄い熱気で、湯気が立つのが見えるようだった。
十一月だというのに、外は凍えるような寒さで、外気に触れた窓に水滴が滴る。
上手くなりたい。
良い舞台を作りたい。
心に湧き上がる熱い思い。
―― 負けることは出来ない。
主役だから?
違う。
踊る仲間の一人として。
「沙羅、パ・ド・ドゥの練習を始めます……今日はチュチュを着けて……」
「はい」と返事をして、稽古場中央へと立つ。
ジゼルは自分の墓の前にアルブレヒトを立たせ、彼の身の安全を図るが、ミルタに誘惑するように命じられる。
五番ポジションから、軸足の足首に伸ばした爪先を付けるク・ドゥ・ピエから軸足に爪先を添わせながら、脚を引き上げていく。
膝に爪先を付けるルティルにし、そのまま足をア・ラ・スゴンド(横)に高く上げる。
腕も足に合わせて、アン・オー(上)へ。
肩が上がらない様に肘を曲げ、両腕で丸く円を描くように。
アルブレヒトはジゼルの魅力に
二人はミルタに命乞いをするが拒絶される。
私は杉田に支えられながらドゥ・ヴァン(前)へ足を伸ばす。
上げた脚を下げない様にア・ラ・スゴンドにし、後に回してアラベスクでポーズ。
杉田に支えられ、
リフトの力を受け、軸足で踏み切りジャンプをすれば、まさに風に漂う
リフトは徐々に高さを増し、杉田が肩を上げて腕を伸ばすと、それは頂点に達した。
ふわりと宙に浮く体。白いチュチュの薄布。
リフトのタイミングに合わせ、私は緩やかにポーズをする。
天井を向いた姿勢で上体を反らす。
前足は上に向けて高く伸ばし、後ろ足はアラベスク。
夜の森を舞う
ほぅ……。
溜息の漏れる音が聞こえる。
杉田のサポートは巧みで、リフトは軽く、着地は柔らかい。
観客は重力を忘れてしまうだろう。
ウィリ達に引き離されながらも、再び駆け寄るジゼルとアルブレヒト……。
その時だ。
「沙羅、そこ!」
来栖の叱責が飛ぶ。
「走り寄るところ、……肩が上がっています! 踊りはよくなった……でも、ちょっとしたところ……踊り終わった瞬間、歩くとき……一瞬だけど、気が抜ける……」
「あ、……つい……夢中になって……」
「全幕で集中力を保つことは難しい……途切れることもある……でも、そういうのって、素人っぽいし、凄くみっともない!」
精いっぱいやったつもりだったのに……。
私は、まだ力不足なのだ。
「集中力を保つこと……それが出来るか出来ないかの差は大きい……気を付けなさい……では、次、ミルタを見ます……」
私は来栖と杉田に礼を言うと、見学側へと回って行った。
今日のレッスンは終わった。
くたくたに疲れて門を出ると、冷たい風が吹きつけ、レッスンで熱を帯びた体が冷気にさらされる。
厚手のタイツを履いているのにもかかわらず、北風が肌に刺さるようだ。
「……寒い……もうすぐ十二月だから……」
身を縮め、顔を埋めるようにマフラーを高く巻き直す。
「……早く帰らないと……明日もあるし……」
その時、「沙羅ちゃん」と私を呼ぶ声。
振り返ると車窓から身を乗り出し手を振る者がいる。
「ママ!」
「お疲れ様……寒いでしょ? 早く乗りなさい……」
何故母がここにと思いながらも、私は車に乗り込む。
車内は暖かく、凍えた体がほぐれていく。
助かった。
レッスン後の体を冷やすことは、ダンサーにとって禁物だから。
「……これを飲みなさい……」
赤い水筒を渡される。
「カフェインレスのオレンジティー……温まるわよ……」
「……大丈夫なの? こんな時間に……大変でしょ? パパの食事の支度もあるのに……」
「平気よ……沙羅ちゃん頑張ってるもの……発表会まであと少しだから、応援する……パパの食事は用意してあるから、自分でレンチンしてもらいましょう……」
「……そんな……平気なの?」
父は仕事一筋の人で、家事はほとんど出来ない。
レンジでさえ扱えるか怪しいものだ。
「……あのね……沙羅ちゃん……パパも厳しいことを言っているけど、沙羅ちゃんが心配だからよ……元気でいて欲しい、頑張って欲しいという気持ちはママと同じなの……それは分かってね……」
「うん……」
私は、バレエへのモチベが下がったことを、隠し
だが、父が私の変化を見逃すことはなかった。
私は子供の頃から見守られて来たのだ。
蓋を開けると、湯気とオレンジの香りがふわりと昇る。
「温かい……」
ほっこりとする心と体。
外気の冷たさが嘘のようだ。
「……眠くなったら、そのまま寝なさい……家に着いたら起こしてあげる……今日のお夕飯はシチューよ……」
礼をしようと思いながらも瞼は重く、私は何時しか眠りに就いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます