第18話  恋する村娘

 紬と過ごしたホテルから楡咲バレエ学校へ向かう。

 所要時間は電車と徒歩で三十分程度。

 バレエ学校に到着した時には、六時を過ぎていて、辺りはすでに暗くなっていた。


(……どうしよう……こんな時間に……それに、土曜日で休みなのに……)


 思い付きで駆け付けたことを後悔し始める。

 建物の前に立つと、一階にある予備の稽古場に明りが点いているのが見えた。

 この稽古場は小規模で、振り付けの時など、個人用レッスンに使われる。


(……誰かいる……中に入れるかもしれない!)


 稽古場を使っている人がいるならば、邪魔にならない様に隅で練習させてもらえばいい。


 だが、職員は認めてくれなかった。


「だめです。今日はお休みでしょ!?」


 入り口近くの事務室で門前払いをくらう。

 事務室には、仕事中の職員の頭上と机にだけ照明が点けられ、廊下は消灯されたまま。

 建物奥にある稽古場から、かろうじて明りが漏れる暗さだ。

 心細くなるも、私は職員に懇願し続ける。

 引き下がるわけにはいかないのだ。


「……で、でも! 練習している人がいますよね? 絶対に邪魔しませんから……隅で練習させてください!」


 私は諦めずに食い下がる。


「だめです!」


 職員も引かない。

 私と職員は入り口で対峙したまま、じりじりと睨み合っていた。


 ……が……その時だった。


「なんですか? 騒々しい! ……集中したいから、人を入れないでくださいと、お願いしましたよね?」


 薄暗い廊下奥から、不機嫌そうな低い声。

 “練習の邪魔をしません!”と、言いながら、私はすでに迷惑極まりない存在になっていたのだ。


「……すみません……この子が言うことを聞かなくて……」


 見ていて気の毒なくらい、職員が申し訳なさそうに頭を下げた。

 それでも私はひるまず、練習の許可を求める。


「……すみません! 私も一緒に練習を……」


 と、言いかけた時、声の主が暗闇から現れた。

 稽古を邪魔された人物は、ややきつめの眼差しで私を見すえる。


 ―― 来栖夕舞!


 なぜ、彼女がここに!

 その場で直立不動になる私。


「……ああ、貴女……何事?」


 来栖は煩わしそうに私を見た。


「……あ、あの……練習したくて……」


「こんな時間に? 突然?」


「どうしても練習したいんです! 私だけのジゼルが踊れそうなんです!」


 今、ここで折れてはいけない。

 その一心で、私は来栖に訴えかける。

 彼女はまじまじと私を見つめた後、諦めたように言った。


「……わかった……いらっしゃい……今夜はもう練習にならない……だから、貴女の踊りを見てあげる……」


 職員の顔が青ざめ、今にも卒倒しそうな有様だ。

 「絶対に邪魔者を入れるな!」。きつく言われていたに違いない。

 

「この子が今日来たことは、楡咲先生には黙っていていただけますか?」


「わかりました。来栖さんが、そう仰るのでしたら……」


 職員は何度も頭を下げ続けた。


「いらっしゃい、沙羅」


 来栖に導かれ、私は稽古場へと足を踏み入れる。


「バーレッスンは一人で済ませて……私は事務室でお茶を飲んでる……終わった頃に来るから……」


 来栖がそばにいては、職員は心安らかでいられないだろう。

 だが、私には心で詫びる暇さえなかった。


 着替えを済ませ、バーに就くと、一番ファーストポジションでプリエをする。

 いつも通りに。

 心に波立つ慌ただしさが消え、穏やかに静まっていく。

 いつしか私はレッスンに集中していた。

 基礎レッスンが終わった頃、来栖が戻って来た。


「……いい顔してる……きっと踊れるわね、沙羅?」


「はい!」


「じゃあ、一幕のヴァリアシオンを踊って!」


 自分は今最高の踊りが出来る。

 そんな自信があった。


 稽古場を回るように移動してプレパラシオン。

 そしてアラベスク、パンシェ。


 私はジゼルを踊る。

 優しく思いやり深い少女。

 彼女の笑顔を見れば、誰もが温かな気持ちになる。

 アルブレヒトも、そんなジゼルを愛したのだ。

 ジゼルには人を捉えて離さない魅力があり、彼はそれに逆らうことが出来なかったのだ。


 弾むように軽い足取りは、初めて人を愛した喜びを表現する。

 会えない寂しさは、出会えた時の嬉しさを一層深くする。

 まるで、私自身の心のように。


 私は結翔が好き。

 彼が私に会いたいと言ってくれたとき、天にも昇る気持ちだった。

 何の約束もない二人。

 これから先どうなるかもわからない。

 でも、……私は結翔が好き。


 やがてターンで移動しながら場内を一周して、最後は静止ポーズ


 来栖は黙したまま。

 私はどきどきとしながら、彼女の言葉を待った。

 来栖は私のジゼルをどう思っただろう。

 やがて、来栖が口を開いた。


「……よくなった……優等生的なジゼルね……可憐で素朴な村娘……地味なのは相変わらずだけど、……何よりもいいのはね、貴女自身がイメージを掴んだことなの……」


「ありがとうございます!」


 実力を発揮できたという自負はあった。

 でも、予想以上の誉め言葉に、じんと目頭が熱くなる。


「……レッスンを中断されたけど、これならば私も報われるというものね……」


 しまった!

 私は来栖のレッスンの邪魔をしてしまったのだ。

 こっそり端っこで練習するだけのつもりだったのに、いつの間にか、稽古場いっぱい使って踊ってしまったのだ。


「……すみません……」


「……さっきのジゼルは、何かこう……真に迫ってた……まさに、恋する村娘……ね?」


 と、来栖がにまにまと私を見つめた。


 ふ、ふみゅー!


 見抜かれた!?

 

 私ってそんなに分かりやすい!?


「練習の邪魔をして申し訳ありませんでした……」


 ひたすら詫びながらも、好奇心がむくむくと湧き起こる。


「……あ……の……」


 おずおずと進み出る私。


「何? これ以上まだ用があるの?」


 面倒は御免だというように来栖。

 でも、私はどうしても知りたかった。


「何の練習をなさっていたんですか……?」


 聞いてしまった。

 外界を遮断して、彼女が一人何の練習をしていたのかが気になるのだ。


「……うん……オーロラ姫……発表会が終わったらロンドンで客演することが決まっているの……」


 それ程多忙な身でありながら、彼女は私達の指導をしてくれたのだ。

 自分の練習時間を削ってまで。

 しかも、今日私は、その貴重な時間を更に奪ってしまったのだ。


 ……でも……。


 『オーロラ姫』

 

 彼女が初主演を務めたオーロラ姫。

 初演で辛酸を舐め、新たに生み出し、世に認めさせたオーロラ姫。


 私の心から、遠慮とか、良識というものが、消え失せていく。


「あ、あの……見せてください! オーロラ姫のヴァリアシオン!」


「えっ!? 何?」


 ぎょっとしたように来栖が後ろへとたじろぐ。


「あ……あのねぇ……今日は、ろくにレッスンが出来ていないの(貴女のせいで!)……だから踊るのは……」


 “無理”とい言いかけた言葉を私が遮る。


「踊ってください! 見たいんです! この目に……心に焼き付けたいんです!」


 来栖が諦め吐息をつく。


「……じゃあ、音楽お願いしていいかしら……わかるわよね? 機材の使い方……」


「はい!」


 機材をセットすると、音楽と同時に来栖がステップを踏み始めた。


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