第13話 言葉2
日曜日には、いつも通り結翔がやってきてスペイン語のレッスンが始まる。
気持ちを切り替えなくてはと思いながらも、バレエのことが頭から離れず、レッスンに集中することが出来なかった。
「……沙羅ちゃん? 休憩しようか?」
「えっ……あの……スケジュール通りに勉強しないと……あと少しでクラスメイトに追いつくから……」
結翔は私の不調に気づいて、休憩を申し出たのだろう。
忙しい中私のために来てくれたのに、勉強に集中しないなんて、失礼だと思う。
「気にしないで……もう、沙羅ちゃんは追いついている……俺がいなくても大丈夫なんだ……それよりも息抜きが必要みたいだ……そうだ! 休憩がてらに散歩をしよう!」
「……で、でも……」
「たまにはリラックスしないと……沙羅ちゃんがスペイン語を習い始めの頃を思い出す……がちがちに緊張して、単語もフレーズも頭に入らなそうに見えた……今もそうだよ……リフレッシュしよう!」
私達は通りに出て、歩き始める。
いつもと変わらない見慣れた景色。
でも、それが結翔と一緒なら新鮮に見える。
「あ……、あの……スペイン語を習い始めの頃、私そんなに緊張してました?」
「うん……だから、サポートしたんだ……スペイン語の楽しさを感じてく欲しくて……」
スペイン語の楽しさ。
あの頃の私は不安で一杯で、それどころではなかった。
クラスメイトに追いつかなくては、早く慣れなくては……。
楽しむゆとりなんてなかった。
そんな私を、プレッシャーから解放してくれたのは結翔だった。
もしかして……。
今の私の状況はあの頃と同じなの?
頑張らないと。
レッスン生に追いつかなくては。
主役なのだから……。
鈴音も光里も私を気遣って自主練に付き合ってくれた。
それなのに、自分一人で責任を感じて、自分一人で背負いこんで。
主役だからと。
「一緒に舞台を作っていこう」と誓い合ったのに、いつの間にかプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。
「……沙羅ちゃん」
呼びかけられ結翔を見ると、優しい眼差しと目が合う。
「あのね……この前言ったけど、何かあったら俺に話して欲しいんだ……もっと頼って欲しい……信じて欲しいんだ……」
信じる。
私は信じていなかったのだろうか。
私は一人で頑張り過ぎていたのか。
だから、来栖の言わんとするところが理解出来ずにいるのだろうか。
今も、結翔に頼ることに躊躇いを覚える。
「沙羅ちゃんはさ……しっかりしているから、人に頼れないのかもしれない……でもね……苦しい時は甘えていいんだよ……」
でも……信じたい。結翔を。
見上げれば、晴れた空に秋風が吹く。
悩みを風に流せば、新しい何かがつかめるのだろうか。
「はい!」
「そう、その調子! 早速だけど、どこか行きたいところはある?」
「じゃあ、お言葉に甘えて、……“フルール”のケーキが食べたいです!」
「了解! じゃあ、歩いていこう。一駅分だから……食前の運動になる……大事な時に沙羅ちゃんを太らせるわけにはいかないから……」
結翔の優しさに笑みが零れる。
こんな風に笑ったのは久しぶりだ。
秋が深まる午後、私達はカフェ“フルール”へと歩き始めた。
月曜日。
私はバレエ学校へ行き、レッスンを始める。
群舞の練習を見学した後、自分の名前が呼ばれる。
ジゼルのように歩き、位置につきプレパラシオン。
これを何度繰り返しただろう。
来栖のアドバイスを活かせずにいたが、今日こそ前に進みたい。
爪先立ちでアラベスク、そしてポーズ。
いつも通りに。
だが……。
「そこ! もっと上に伸びて!」
来栖が鋭く言い放ち、私は考える間も無く、上体を上へと引きあげた。
(……えっ!?)
背筋と共に、心がどこまでも昇っていくような感覚。
今までにない経験に戸惑うも、緊張が解け、心と体が緩むのが分かった。
不安や恐れが消え、心が軽く弾むようだ。
「その呼吸!」
来栖が私を鼓舞する。
(呼吸って……? 何のこと?)
でも、今、心と動きが一つになった。
もしかしたら……。
アラベスクで上に伸びるポーズは、天にも昇るようなジゼルの喜びを表しているのではないか。
「そのままステップを踏んで! 軽やかに!」
来栖の声がいっそう熱を帯びる。
躊躇う間もなくステップを踏む。
軽やかに。
(……この動きは……)
ジゼルそのものなのだ!
踊りたくてたまらないのに許されなくて、ようやく踊れた時のジゼルの心なのだ。
恋人の視線を受けながら、ジゼルは幸福感に包まれていた。
ステップの動きが、ジゼルの心に重なっていく。
「アチチュードしてターン! そよ風に乗るみたいに!」
そう、ジゼルの心は舞い上がり、風に吹かれ飛び去るほどなのだ。
来栖の声が私を躍らせる。
今までとは違う私が引き出されようとしていた。
アチチュード・ターン。
(今までよりもずっと、軽くまわれた! ジゼルはきっとこんな気持ちだった! 踊れることが嬉しくて、嬉しくて仕方がないの!)
「振り付けも音楽も、彼らの“言葉”なの」
鈴音の言葉を思い出す。
心と動きが一つになり、ステップが私を躍らせる。
私はただ音楽に合わせて踊るだけなのだ。
ジゼルのヴァリアシオンは約一分三十秒。
踊り終えた私は、自分が何かをつかんだことを感じた。
呼吸を整え、前を向くと、目の前には来栖がいる。
彼女は、今まで見たことの無いような、優しい
「ようやく……らしくなった……演技と言う点ではまだまだだけど、殻が破れた……硬い殻が……私の言葉が届くようになった……」
「……ありがとうございます……」
感謝の気持ちに満たされ、私は頭を下げる。
レッスンは辛く、厳しかった。
だが、妥協を許さぬ来栖の
「……でも、まだ始まったばかり……ジゼルは、登場するだけで魅力を表現しなくてはならない……アルブレヒトを前に恥じらう可憐さ、花占いに、ヒラリオンとのやり取り……冒頭だけでも、難しい演技が続く……一幕の終盤には狂乱の場面があって、二幕では、一幕とは全く違うジゼルを演じる……貴女はそれをすべてクリアしなくてはならない……」
来栖の言葉が私にずしりとのしかかる。
自分は、ようやく一歩踏み出したばかりなのだ。
「……が、頑張ります!」
これは自分自身への誓い。
山積になった課題を乗り越えるための。
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