第10話  レッスン開始

 楡咲バレエ教室発表会『ジゼル全幕』。


 レッスンの開始時間は、AクラスとBクラスの間を取り、五時となった。

 元々の時間は、Bクラスが午後四時、Aクラスが六時で、通常のレッスンは一時間半。

 発表会の練習は、その後一時間かけておこなわれる。

 今まで通り六時半に終わるが、毎日一時間プラスされるのは厳しい。

 コンディションを整え、乗り切らねばと思う。

 男性役ソリストとは、本番間近に合流することになっている。


 ―― そして彼女がやって来た。


「皆さん……発表会の指導をしてくださる方をご紹介します……来栖夕舞さんです」


 ―― 来栖夕舞!


 どよめきの声があがり、ざわざわとした騒々しさが広がっていく。


「落ち着いて!」


 教師の声に生徒たちは静まるも、動揺は隠しきれない。

 声を潜め、ひそひそと囁きあう。


「来栖さん、お入りください」

 

 教師に招かれ、来栖が足早に稽古場に入って来た。


 来栖夕舞。

 世界が認めた素晴らしいプリマ。

 切れ長の瞳、結えるぎりぎりまで段を入れたレイヤードヘア。

 染めた栗色の髪は光に透け、王者のマントさながらに翻る。

 伸びた背筋、爪の先にまで気遣われた仕草。

 彼女は、シャツにジャケットを羽織り、細身のパンツを履いていた。

 誰もがその輝きに目を奪われ、彼女の動向を見守る。

 「あの来栖夕舞が!」 「あの世界的なプリマの来栖夕舞が!」


 熱気溢れる視線が彼女に集中する。


(……まさか……来栖さんが指導をするなんて……)


 初対面での苦い記憶のために、私の衝撃はいっそう激しかった。

 早鐘のような鼓動が、他の生徒に聞かれることを恐れた。

 生徒達が落ち着いたころ、教師が説明を始める。

 彼女を招いた理由は、良い舞台を作り上げること、生徒達の技術向上を目指すためだと。


「……本当にそれだけかしら……学校の宣伝効果を狙ってじゃない……?」


 鈴音が私に耳打ちをする。


 楡咲バレエ学校の発表会は、毎年バレエ関係者の注目を集めている。

 だからと言って、来栖夕舞を迎えることは大変なことなのだ。

 なにか事情があるとしても、私に理解出来ることではない。


「来栖夕舞です……良い舞台を作っていきましょう……」


 場内に割れんばかりの拍手が巻き起こり、来栖は更衣室へと去っていった。 


 基礎レッスンは、通常通り教師が指導する。


「レッスンを始めます、バーについて!」


 教師の指示に一斉に反応する生徒達。

 バーに手を掛けると、両足の踵と膝をつけて立つ。


「プレパラシオン!」

 

 号令と共に、一番ポジションで音楽を待つ。

 まずはバレエシューズで基礎レッスンだ。

 私は動揺のために、動きがぎこちなくなってしまった。

 だが、基礎レッスンを疎かにすることは出来ない。

 気力を奮い立たせて、練習に集中する。


「……腰を落として……膝はゆっくりと曲げて……」


 教師の言葉に耳を傾け、私はプリエをする。

 

「……上体を反らして……力任せにしないで……そう……丁寧に……」


 私は腕をアン・オー(上)にし上体を反らす。

 体にこもった緊張が、背骨から肩を通り、指先から抜けていくようだった。

 心は音楽と一つになり、爪先が床を弾いていく。

 いつしか私はレッスンに没頭し、平静さを取り戻していた。

 無駄な力が抜け、リラックスした状態。

 『ジゼル』を踊る準備が整ったのだ。

 やがて、スウェットのシャツとパンツに着替えた来栖が戻って来た。

 髪は一つにまとめ、軽く結い上げられている。


 バレエシューズをトウシューズに履き替えれば、いよいよ『ジゼル』のレッスンが始まる。


「……まずは、二幕の群舞コールドを見せてください……」


 来栖の一言で、室内に張り詰めた空気が流れる。


 二幕の群舞。


 ミルタに呼び起こされたウィリ達が、月明かりの中で踊る幻想的な場面だ。

 舞踏は広間でも催される宴のように、徐々に活気を増していく。

 やがて、三人で列を作り、アラベスクをしたまま、右端から左へとプリエの状態で進んでいく。

 左端からも同様に進み、二つの列は互いに中央へと向かう。

 同じ動きを、三人ずつ増やしながら層を作り、左右の列は徐々に距離を縮めていく。

 最後にミルタのお付きが一人ずつ左右最前列に位置して、右側の列は左側の前を通り、左右の列は交差しながら舞台袖へと向かう。

 

 呼吸いきのあった踊りは、素晴らしく、見とれずにはいられない。

 ……だが……来栖は彼女達のダンスをどう評価するのか?

 私は気付かれぬよう、来栖を盗み見るも、彼女の表情からは何も読み取れなかった。

 来栖は無言のまま、じっと群舞を見つめるだけ。

 

 いよいよ女王ミルタの登場という時だ。


「ちょっと待って!」


 鋭い声に、踊りの動きが瞬時に止まった。


「……音楽を止めてください……」


 来栖がアシスタントに声をかける。


「よく踊れている……一人一人のポーズは正確だし、動きも揃っている……」


 緊張した生徒の面持ちが一瞬緩んだ。


 が、


「……でも、それだけ……何にも感じない……何も伝わって来ない!」


 放たれた言葉に誰もが凍り付く。


 来栖はミルタ役の赤城咲良に、彼女の手にした小道具のローズマリーを渡すように言った。


「……これ、ローズマリーよね? ……知ってるでしょ?……花言葉……」


「は、……はい……“記憶”です……」


 おずおずと咲良が答える。


「……そう、記憶……何のために小道具にこれを使うのだと思う? ウィリの心情を表現するため……彼女たちの記憶……何だったと思う? 暖かい日差しに豊かな自然……働き、豊作を祝った日々……仲間たちと過ごした時間……その中には恋人がいたかもしれない……でも、それは実ることがなかった……暗闇に追いやられ、忘れ去られるのを待つだけ……そんな彼女たちが記憶をたどる手立てはただ一つ……」


 来栖が生徒達をぐるりと見渡した。


「ダンス! ダンスだけ! 踊ることによってだけ、生の喜びと暖かさを感じることができる……ダンスだけが生きた証なの……想像したことある? ウィリの悲しみや口惜しさを!……ないわよね?……だって全然感じられないもの!」


 生徒たちの目の色が変わった。

 来栖の言葉が、彼女たちの情熱に火をつけたのだ。


「さあ、もう一度! ウィリの心を私に見せて!」


 「はい!」と返事をし、精霊ウィリ達は一斉に位置に付き、再び踊りだす。

 来栖の一言が少女達を変えた。

 いや、何かを吹き込んだと言った方がいい。

 何か……そう精神スピリットのようなもの。

 

 踊りは生き生きと活力を増した。

 だが、それは暗い炎のようにくすぶり、日差しの明るさは無い。

 冷たく蒼黒く揺れる鬼火。

 まさにそんな有様だった。

 来栖のアドバイスは的確だった。

 そしてそれに即座にこたえることの出来る少女達なのだ。

 意欲溢れる集団の中で、主役を務めることが恐ろしくさえある。


「……いいです……ずっと良くなりました! この調子で踊りこんでいきましょう……」


 来栖の賛辞を耳に、生徒達が手を取り合って飛び跳ねた。

 まだ先があるとはいえ、課題を一つクリアしたのだ。

 喜ぶのは当然だろう。


 来栖は満足げに少女達を眺めた後、私に向き直った。


「……さてと……今度は貴女の番ね、沙羅……まずは一幕のヴァリアシオンから……いろいろと言いたいことがあるの……貴女には……」


 見透かすような眼差しは、初めて会った日と同じだった。

 

 

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