第9話  事情

 十月の第一週の日曜日。

 私はキッチンでお茶とサンドイッチを用意して結翔を待つ。

 待ちかねたスペイン語のレッスン。

 三か月ぶりだ。

 今日はレッスン前に食事をする約束をしてある。


(……待ち合わせの十二時まであと十分……)


 朝から時間が経つのが遅く感じられる。

 やがて、インターフォンが鳴り、私は玄関へと走り出た。


「いらっしゃい、結翔さん!」


「やあ! 沙羅ちゃんこんにちは!」

 

 帰国から一週間が経ったが、結翔の肌には日焼けの跡がまだ残っていた。

 出国前の結翔は童顔だったのに、浅黒い肌が彼の印象を大きく変えている。

 年齢相応の青年に……いや、それ以上に男らしく頼れる大人に見えた。


「どうかしかた? 沙羅ちゃん?」


「……ううん……もう準備が出来ています……どうぞ……」


 彼は自分の変化に気付いていないのだろうか。

 誰からも指摘を受けないのだろうか。

 結翔の無自覚さを不思議に思いながら、私は彼を空中庭園へと案内する。

 六月までは、結翔はこの家の間借り人で、彼の住む【左側】から出入りしていた。

 今日は来客として私達の住む【右側】を通って空中庭園へと出る。


「懐かしいなぁ……」


 あたりを見回し結翔が感嘆の声を漏らす。


「結翔さんは三か月ぶりですよね……家に戻ったのが六月の終わりだったから……」


 その後私はモナコのサマースクールへ行き、結翔はスペインへ巡礼の旅に出たのだ。


「待っていてください。お茶と食事を用意します……」


 間もなく、私は茶の入ったポットとサンドイッチ、菓子を持って空中庭園へ戻った。


「……やっぱり気分がいい……」


「本当です……お天気も良くてよかった……」


 私達は茶を飲み、サンドイッチをつまみながら話を始める。


「……巡礼は楽しかったけど歩き詰めだろ?……移動は午前中だけといっても日差しは強いし……最後の頃はくたくただった……何も考えられないくらいに……サンティアゴ大聖堂に辿り着いた時には意識飛んでたな……」


「……大丈夫だったんですか?」


 楽しそうに話してはいるけど心配だ。


「ああ……いい旅だった……俺もいつかアルベルゲを建てたい……人がいこえるような……」


 結翔の言葉は力強くて、実現は間違いないような気がした。


 でも……なんだろう……時折、表情を曇らせる。

 心配事があるのだろうか。


「……何かありました……?」


「えっ……? そっか、バレた?……実は、父の会社の経営陣が、俺のことを危ぶみだしたんだ……」


「結翔さんの何が危ういって言うんですか?」


「……全て……俺の何もかもが信用できないって……」


「そ、そんな……」


 確かに私も結翔の存在を怪しいと思ったことはある。

 だが、それは結翔の実情を知らなかったせいだった。


「……俺はね……体調を崩して不登校になり、留年をしてしまった。しかも、復学したと思ったら、一か月近く休んでスペイン旅行……巡礼と言う名の自分探しの旅に出た……どう考えたって信用ならならい存在だろ?……そんな奴に会社を託そうなんて誰が思う?」


 確かにその通りだ。

 でも、結翔は学校では好成績を保ち、自力で旅費を工面した。

 私にはそんな彼が頼もしく見えたのに、他人ひとはそう考えないのだろうか。


「……結果が全て……人はそう言うかもしれないけど、そうじゃない……過程プロセスも大切なんだ……どんな努力をして、どんな人達とかかわって、どういうやり方をしたか……人はそれを見るんだ……」


「でも……過ぎたことは変えられません……結翔さんはこれから努力すれば……」


 結翔はしばらく考え込んでいた。


「……話は変わるけど……父が経営する会社名は『MORIYA』って言うんだ」


 聞いたことがある。

 建築資材メーカーを基盤とするグループ企業だ。

 でも……“塔ノ森”という名前は?


「MORIYAという社名は、塔ノ森と糸矢が併合したものなんだ……で、糸矢というのは、母の旧姓……」


「……」


「……二つの企業が合併し、両経営者の息子と娘が結婚をした……でも、二人は幼馴染で仲がよかったそうだ……政略結婚でなかったとは言いきれないけど、普通の恋人同士と変わりなかったと聞く……」


 結翔の話に私は耳を傾ける。


「……ところが……社内には派閥が出来てしまった……塔ノ森派と糸矢派だ。これは未だにMORIYA内での大きな不安定要素になっている……で、その二つの融合に尽力しているのが松坂専務だ……」


 麗奈の父親だ。

 「あの会社は色々と複雑な問題を抱えていて、その解決にも取り組んでいるそうです」

 紬の言葉を思い出す。


「……あの人は俺のことを良く思っていない……この前家で会った時も、渋い顔をされた……「いい色に焼けていますね!」って……仕事一筋の人だから、この季節にこんがり焼けた俺を良く思わないのは無理もない話さ……」


 成田で結翔を見た時、私には結翔が頼もしく成長したように見えた。

 でも、松坂のように受け取る者もいるのだ。


「母は元気な頃は、父のサポートをしていた。父に助言をし、それは的確なものだった……過ぎる程にね……特に人事面では冷徹でさえあった……そのことで今も母を良く思わない者も多い……俺は母に似ているようで、俺と重ね合わせるんだ……」


「そんな! お母様と結翔さんは別人なのに!」


 酷過ぎる! 

 堪えきれずに私は叫んだ。


「ありがとう……でも、病弱な母にメンタルの弱い息子……俺の評判は地に落ちた……」


「でも、これから頑張れば……」


「もちろん! 考えはある……」


 結翔がくしゃりと笑うと、私の胸がほわりと温かくなった。

 渡欧前と変わらぬ天使の笑顔。

 でも、結翔は変わった。

 力強く成長しただけではなく、ゆとりのようなものが感じられる。


「……あ、俺の話ばかり……沙羅ちゃんも何かあったんだろ?……会った時わかった……嬉しそうだったもの!」


「……えっ?……あの……」


 結翔の後は何だか話しづらい。

 私が主役に選ばれたことなど、取るに足らないことのような気がするから。


「……あ、……あの……発表会の主役に選ばれました……」


「凄いじゃない!」


「……でも……結翔さんの苦労を考えると……」


 結翔はリーダーとしての役割を担おうとしている。

 彼の重責など、私に想像できるはずもない。

 

「そんなことないさ! 沙羅ちゃんは舞台のトップに立ったんだ! たくさんの人が沙羅ちゃんを頼る……俺と同じさ!」


「そんな……」


「プレッシャーを感じるかもしれないけど、大丈夫! 沙羅ちゃんはしっかりしてるし、責任感も強いから……」


「わかりました……私は私の役割を果たします!」


「そう来なくちゃ!……沙羅ちゃんがいると心強い……自分は一人じゃないって思えるんだ……」


「私もです!」


 私には共に戦う仲間がいる。

 それは私の大好きな結翔なのだ。







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