第8話 秋桜
食後のお茶が出されると、紬が塔ノ森氏に話しかけた。
「お父さん……沙羅さんを私のお部屋に案内してもいいですか?」
「それはいい! 沙羅さんに紬ちゃんの部屋を見てもらいなさい……」
紬は塔ノ森氏の許可を取った後、結翔にも確認をする。
「結翔さん……しばらく沙羅さんをお借りしてもいいですか?」
「いいよ! 俺は居間で麗奈と話してる……久しぶりだものな……麗奈?」
麗奈が「はい」と返事をする。
「……じゃあ、沙羅さん、こちらへ……私の部屋に来てください……」
(どんなお部屋なのかしら……?)
部屋の戸口に立つ時には好奇心が膨れ上がっていた。
「さあ、どうぞ……」
扉が開けられ、紬の部屋へ足を踏み入れる。
南向きの窓はレースのカーテンで覆われ、柔らかな陽ざしが室内を照らす。
明るく広々とした部屋からは、塔ノ森氏の義理の娘への心遣いが感じられた。
「素敵なお部屋!」
「うふふっ……おじ……いいえ……父が用意してくれました……机もベッドもカーテンも新品なんです!」
「居間付きのお部屋なんて初めて!」
紬の部屋の手前は彼女専用の居間になっていて、ソファーとテーブルが置いてある。
奥の寝室には白い天蓋付きのベッドと、
私と紬は、ソファーに並んで座った。
「……羨ましい!……新しい家にはもう慣れた?」
「皆さんとても良くしてくれて……欲しいものがあったら、どんどん言って欲しいって……結翔さんも戻って来たし、これからは家族で暮らせます!」
にこにこと紬が笑う。
紬は見違えるほど元気になった。
以前は落ち着きがありながらも、どこか影のようなものが感じられた。
でも、それは取り払われて、明るく朗らかな少女になった。
今の紬は幸せそのものだ。
「……紬ちゃん少し焼けたんじゃない?」
私は紬がほんのり日焼けしていることに気づいた。
色白の彼女も魅力的だが、薄っすら焼けたトーストの肌も好ましい。
「……わかりますか? 両親と軽井沢の別荘へ行ったんです……今度沙羅さんも一緒に行きましょう!」
「わっ! いいの?」
「ぜひ、いらしてください! ……それにしても……さっきの麗奈さん……」
紬が必死で笑いを堪えている。
「……私はどうなるかと冷や冷やしちゃった……」
堪えきれずに笑い転げる二人。
「あ〜……おかしい!」
「ほんと!」
笑い疲れた頃、紬が話し始める。
「……沙羅さんがモナコへ行った後結翔さんに相談しました……麗奈さんの私への仕打ちはどうでもよかったんです……でも……婚約のことは、誤解したままじゃいけないと思って……でも、さすが結翔さん……プライドの高い麗奈さんの性格を上手く利用しました!」
「本当に!……でも大丈夫かしら?……私、松坂さんが倒れるんじゃないかと思った……」
「大丈夫です。今頃結翔さんがフォローしていますから……」
一時はどうなるかと危ぶんだけれど、なんとか収まるところに収まってくれたのだから良しとしよう。
「……結翔さんも麗奈さんの機嫌は損ねたくないんです……麗奈さんのお父様、松坂専務は会社にとって大切な人だと母が言っていました……骨身を惜しまず働いて、……それに……あの会社は色々と複雑な問題を抱えていて、そういったことにも取り組んでいるそうです……だから専務を慕う人は多いとも……」
「そうだったの……私達も松坂さんには気を付けて接しないと……」
「そうして頂けると助かります……」
紬は苺のような唇をきゅっと噛みしめ、徐に言った。
「あ、あの……沙羅さんに報告したいことがあるんです……私、父方の祖父母に会いました……」
紬の実父の両親だ。
彼女は家督争いのために、長い間出生を明かすことができず、そのために麗奈から嫌がらせを受けていたのだ。
「……優しそうな人達でした……私に会えたことを喜んでくれて……」
紬の言葉が涙でくぐもる。
「……よかった……」
私は自分の事のように嬉しかった。
私が紬について気がかりだったこと。
紬が自分の血のつながった身内と会うことができるかどうか。
紬の長い苦労は報われたのだ。
「そろそろ戻りましょう……沙羅さんを独り占めしたら、結翔さんに怒られそう……」
「そ、そんな……」
恥ずかしがる私を、紬がくすくすと笑った。
客間の扉の前に立つと、麗奈の笑い声が聞こえてきた。
その声は気取りなく朗らかで、彼女がこんな風に笑えることを、私は初めて知った。
「お帰り! 麗奈とアルベルゲで一緒だった人の話をしていたんだ……」
「結翔の話は面白くって! 二人きりだと話が弾むわね!」
麗奈の機嫌はすっかり戻ったようだ。
無事に役目を終えた結翔は、今度は私に向かって話しかける。
「沙羅ちゃん……、日曜日にはスペイン語のレッスンを再開するからね!」
「本当!?」
結翔が空中庭園に戻ってくる。
また、一緒に結翔と勉強できるのだ。
巡礼の話もたくさん聞けるだろう。
だが、麗奈がそれに異議を唱える。
「結翔! スペイン旅行から帰ったら、大学受験の準備を始める約束だったじゃない!?」
麗奈の言い分は正しい。
結翔は今年も一か月近く学校を休んでしまった。
勉強に専念しなくてはならないのだから、私との時間は取れないはずだ。
「あ、あの……結翔さん無理をしないで……スペイン語は自分で勉強できますから……」
「ほら! 有宮さんもああ言っているし……なんなら私が教えてあげてもいい……これでも成績はいいの!」
「……松坂さんも……私、一人で大丈夫だから……」
早速お目付けの役割を果たすつもりなのか。
でも、結翔が来られないなら、せめて麗奈が教師になることだけは避けたい。
「麗奈……俺、自分の勉強はきちんとする……信じて欲しい……あと、沙羅ちゃんはあと少しで追いつきそうなんだ……あと少しだ……俺の教え方に慣れているから急に変えるのは良くないだろ?」
結翔の話は筋が通っているが、麗奈は受け入れてくれるだろうか。
私は祈るような気持ちで答えを待った。
「そっ、そうですね! 私も有宮さんが早く学校に慣れてくれればいいと思っています……でも、受験勉強もきちんとしてください!」
「麗奈はしっかりしてるなぁ、俺、頑張るよ!」
結翔が笑う。
説得は成功したようで、私はほっと胸をなでおろす。
我儘かもしれないけど、やはり結翔に会いたい。
彼の実家と私の家は電車で一時間近く離れているから、偶然出くわすことはない。
しかも平日は、結翔は勉強が忙しいし、私はバレエのクラスがあるから会う機会がない。
日曜日のレッスンは結翔と会う貴重な時間なのだ。
気が付くと、時計はすでに四時を指していた。
「……あ、もうこんな時間……そろそろ帰らないと……今日はありがとうございました……」
私が席を立つのと同時に、運転手の白井が腰を上げる。
「待ってください……俺が送ります……白井さんは麗奈をお願いします……麗奈、もう少しゆっくりできるだろ?……せっかく来たんだから……」
結翔が私を、白井が車で麗奈を送る。
それを麗奈がどう受け止めるのかと、不安に思うも、麗奈は満足げに唇の端を上げて私を見た。
運転手に送られる自分の方が厚遇されたと感じたようだった。
「じゃあ、沙羅ちゃん、送るから……ちょっと待ってて、俺仕度してくる……」
「ありがとう」
「こちらこそ、……今日は、朝早くから大変だったね……」
結翔と空港で会ったのは、今朝のことなのに、ずっと前の事のような気がする。
せっかく会えたばかりなのに、もう別れなくてはならない。
楽しい時間はなんて早く過ぎるのだろう。
仕度を終えた結翔が現れ、私は彼と共に塔ノ森家を後にする。
「沙羅ちゃん……日曜日には行くから……」
「……楽しみにしてます……」
本当はもっといろいろと話したかった。
モナコのサマースクールのことや、主役に抜擢されたこと。
だが、何を話すよりも、こうして過ごせることが嬉しい。
小道の曲がり角、庭先で
九月も終わる秋の日、私は結翔と並んで駅への道を歩いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます