第7話  夏服のふたり

 九月最後の日曜日。

 私は塔ノ森家の車に乗り成田へと向かう。

 スペインから帰国する結翔を迎えに行くためだ。


 紬と行くつもりだったのに、なぜか彼女は遠慮をし、私一人の出迎えとなった。

 「紬ちゃんも一緒に」と誘っても、彼女は曖昧な笑みを浮かべるばかりだった。


 午前八時。

 塔ノ森家から迎えの車が来た。


「おはようございます、木下さん。……今日はよろしくお願いします!」


「おはようございます。こちらこそよろしくお願いします、沙羅さん」


 車に乗り込み、挨拶を交わす。

 

 運転手の木下は、白髪の六十代ほどの男性だ。

 

「今日は暑くなりそうですね……空調を入れておきました。寒くなったら言ってください……」


「……ありがとうございます……助かります……」


 ぱたぱたとてのひらで顔に風を送りながら礼を言い、シートに深く座り直す。


「九月も終わるっていうのに、暑さがぶり返しましたね……夏に逆戻りです……」


「本当に……」


 今日は朝から暑すぎる。

 上着を羽織らず、シャツ一枚で正解だった。


 ……でも……。

 窓外の景色を眺める。

 空は日々高く澄み、時折清涼な風が頬をかすめる。

 暑さは夏の名残、置き土産のようなもので、季節は秋へと向っている


「こりゃ参ったな! 渋滞に巻き込まれました!」


 木下の声に前方を見ると、車の列が視界を塞ぐ。


(……どうしよう……飛行機の到着時に私がいないと、結翔さんを待たせてしまう……)


 私がやきもきとしていると、


「大丈夫です! 飛行機の到着時間には間に合います……渋滞を見越して早めに出ましたからね……」


 木下は私の気持ちを察したのだろう。

 恥ずかしくはあるが、遅れることなく会えることが嬉しい。


 空港に着くと木下を車に待たせ、一人ロビーへと向かう。

 足は次第に早まり、いつしか私は走り出していた。

 見送る人、迎える人。旅立つ人、帰路に就く人……。

 人混みの中を足早に潜り抜けていく。

 ぶつからないようにと、気を配りながらも、私の心ははやるばかりだった。


 息を切らし立ち止まると、周囲を見渡し結翔を探す。

 飛行機の到着時間は過ぎているのに、約束の場所には結翔がいない。

 何かあったのだろうかと、心に不安がよぎる


「沙羅ちゃん!」


 懐かしい声。


「待たせちゃった!? ごめん! 荷物の受け取りに手間取っちゃって……」


 結翔だ。

 薄手の白いシャツが、日焼けした肌に良く似合っていた。

 結翔は私を見つけると、手を振りながら、荷物を抱えて走って来た。

 目頭がじんと熱くなり、私は涙を隠すように顔を伏せる。

 結翔が私の前に立つ。

 会いたかった結翔が、私のすぐそばにいるのだ。

 結翔は私の首にそっと腕を回すと、体を引き寄せ、優しく耳元で囁いた。


「……ただいま……沙羅ちゃん……」


 ……どきどき……。

 

 鼓動が伝わってしまう。

 私も結翔も、シャツしか着ていない。

 薄い布地越しに体温が伝わり、素肌を合わせているような錯覚を覚える。


 人目が気になるけど、ずっとこうしていたい。

 ずっと離れ離れだったのだから……。

 結翔がここにいる。

 ただ、それを感じていたかった。


「……おかえりなさい……」


 私は体を寄せたまま、結翔を見上げる。


 ……と……。


「……あ……ら……?」


「何?」


「……えっ……と……結翔さん雰囲気が変わったような気がするの……」


「そう? 日焼けしたせいかな?……それに少し痩せたんだ。歩きっぱなしだったから……」


 小麦色に日焼けした結翔は男らしく見えるし、痩せたと言うよりは引き締まったようだ。

 印象が変わったのはそのせいかもしれない。


 ……でも……何かが違う気がする。


「……いけない! こんなところに立たせっぱなしで! 迎えの車が来ているの……疲れたでしょ? 早く帰りましょう」


 私達が車に乗り込むと、運転席から木下が声をかけた。


「結翔さん、今、会長から連絡がありまして、結翔さんと一緒に食事をしたいとのことです。沙羅さんもご一緒に……」


「……私もですか?」


 私は結翔が家に到着したら、そのまま自宅に送り届けてもらうつもりだった。

 だから、結翔の父親に会う為の服装ではない。

 身に着けているのは綿のシャツにスカート。

 もう少し身なりに気遣っていればと思う。


「大丈夫だよ、沙羅ちゃん……俺の家なんて気軽に遊びに来ればいいんだ!」


「……そう言われても……」


 結翔の家にはモナコへ行く前に一度行ったきりだが、今の服装に相応しい雰囲気ではなかった記憶がある。


「気にしないで!」


 結翔の笑顔に緊張感がほぐれる。


「……わかりました……お願いします!」


「そうこなくっちゃ!」


 結翔の家には、一時間半ほどで到着した。


 私は居間に案内され、結翔が着替えを済ませるのを待つことになった。


 そこに思いもよらぬ人が現れた。


 麗奈だ。


 臙脂色のワンピースを着ている。

 目立たない、それでいて適度な華やかさを持つ装い。

 麗奈がこうした席に慣れていることがわかる。


 急遽決まった昼餐会に、彼女は相応しい身なりで応じたのだ。


 ラフな服装の私は恐縮するばかりで、せめてカーディガンを用意していればと思う。


 ―― 一瞬……。


 薄い布越しに触れ合った記憶が蘇り、頬が熱くなる。


 麗奈が私を凝視している。

 「何故、今日貴女がここにいるの?」と言わんばかりに。


「……あ、……こんにちは。いいお天気ですね……」


 引きつった顔を必死で和らげ、挨拶をする。


「ああ、そうだった……貴女は六月まで結翔の家主だったわね。この度は結翔がお世話になりました……」


 麗奈は彼女なりに私がこの場にいる理由が見つけられたようだ。

 婚約者として失礼のない振る舞いをしたつもりなのだろう。


「……あ、……それほどでも……それに私の両親の家だし……」


「……」


 私にこれ以上気遣いをする必要はないと判断したようで、麗奈は笑顔でこたえるだけだった。


(……どうしよう……松坂さんはまだ自分が結翔の婚約者だと思い込んでる……)


 このままではいけないと思いながらも、なす術もない。


 やがて、小ざっぱりとした服に着替えた結翔が現れた。


「麗奈、よく来たね!」


 結翔が気さくに声をかける。

 この二人は幼馴染なのだ。


 間もなく、食堂に案内される。

 席順は、一番奥上座に結翔の父親。

 彼の右隣に秋絵が座り結翔と向かい合う。秋絵の隣には紬が座った。


 そして私は結翔の隣、紬の向かいに着席した。

 麗奈の席は紬の隣だった。


(……どうしよう……松坂さんの方が下座だなんて……)


 下座斜め向かいから、麗奈が視線を矢のように飛ばしてくる。

 何故私がこんな辱めを受けるのか? と。


(……どうしよう……)


 それでも昼餐会は穏やかに行われた。

 話題は結翔の巡礼の話、塔ノ森夫妻の新生活について。

 

 結翔の父、塔ノ森学とうのもりまなぶは温厚そうな人物だ。

 ゆったりとした落ち着きがあり、結翔にその面影が見られるが、瓜二つと言うほどではない。

 似ているのは、外見よりも雰囲気で、時折見せる遠くを見るような眼差しが血の繋がりを感じさせる。


(……結翔さんはお母様似なのかしら……)


 そんなことを考える。


「……でね、その日は宿が見つからなくて困ったよ……で、ようやく見つけた宿が粗末で……」


 結翔がある小さな町で、宿探しに苦戦を強いられた話を終えた時だった。


「……それにしても……麗奈には迷惑かけちゃった……」


 話題は、彼と麗奈の子供時代の思い出話へと移っていった。


「そんな迷惑だなんて!」


 麗奈が笑う。

 婚約者なのだから、小さなことは気にするなと言うように。


「……だって、いくら子供相手だからって、俺の婚約者なんて冗談言われたんだよね? 俺なんか押し付けられて迷惑だったろ?」


 麗奈の表情かおが一瞬固まった。


「いくら幼馴染とは言え、父さんは冗談が過ぎるよ!」


 父親を責める結翔。


「なんだって? 私は麗奈ちゃんにそんな失礼なことを言ったのか?」


 驚く塔ノ森氏。

 結翔と麗奈の婚約話は、二人が子供の頃、父親同士が酒の席で交わした冗談だった。

 それを麗奈が真に受けてしまったのだ。


「……」


 言葉を無くす麗奈。


「それは悪かったね……結婚相手を押し付けるなんて、冗談とはいえ失礼だった。 許してくれるかい? 麗奈ちゃん……」


 申し訳無さそうに塔ノ森氏。


 麗奈の顔は赤くなり、その後すぐ青くなっていった。


「ほら、麗奈だって気を悪くしてる!」


 結翔が追い打ちをかけるように父親を責める。


 私は恐々と麗奈を見つめた。

 だが、麗奈の青ざめた顔には徐々に赤みが差し、やがて声をあげて笑い出した。


「嫌ですわ、おじ様! そんな昔のこと! そんな冗談で気を悪くするほど、私は子供じゃありません!」


 麗奈は軽く受け流すと、再び料理を口に運んだ。


 麗奈は、自分が結翔の婚約者ではなかったという事実に失望しただろう。

 だが、子供時代の冗談を真に受けた羞恥心がそれを上回ったのだ。

 私は麗奈のプライドの高さと自制心に驚かされる。


「そうかい。安心した……麗奈ちゃんにはこれからも力になって欲しい。紬もこの家に来たばかりで、分からないことが多いし、沙羅さんも入学して間もない……麗奈ちゃんの助けが頼りなんだよ……」


 塔ノ森氏の麗奈に対する信頼は絶大のようだ。


「わかりました、おじ様。私にお任せください!」


 新しい役目を与えられ、麗奈の瞳がらんらんと光る。


 こうして、麗奈は結翔の婚約者という役割の代わりに、私のお目付け役という新しい責務についたのだった。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る