第6話 楽屋にて
終演後。
涙を拭き終えた私は一度会場を出て、牧嶋と共に楽屋入り口に入った。
「……い、いいんですか? 入ったりして!?」
周囲を窺いながら小声で尋ねる。
「大丈夫……沙羅ちゃんに会いたいって言っているの……」
「誰がですか?」
「……来栖夕舞……」
「え!?……本当ですか? 牧嶋さん知り合いなんですか?」
「実はね……沙羅ちゃんのおさらい会のDVDを見せたら、ぜひ会いたいから連れて来て欲しいって……」
「ほ、本当に……!?」
私はおさらい会で『ピチカート』を踊った。その時のDVDを、高名なプリマに見せたと聞けば、恥ずかしさで顔から火が出るようだ。
でも、そのおかげで来栖夕舞に会えるなんて、夢のようだと思う。
恐る恐る頬をつまむと、指の感触がじわりと広がっていく。
(……痛っ!……)
頬に残る鈍い痛み。
これは現実。夢ではないのだ。
狭い廊下を通り抜け、楽屋へと向かう。
途中、警備員に呼び止められるも、牧嶋の顔を見るとそのまま通してくれた。
来栖夕舞と知り合いというだけでも驚くのに、牧嶋は何者なのだろうか。
ネームプレートの掛けられたドアの前に立ち、牧嶋がノックして名乗ると、「どうぞ」と招き入れられる。
私は深呼吸をした後、室内へと足を踏みいれる。
胸を高鳴らせて辺りを見回せば、ドレッサーの前に一人の女性が座っていた。
来栖夕舞だ。
私は呆然とその姿を眺めた後、彼女の状況を把握しようと試みる。
すでに着替えを終え、熱心にネイルを塗っている。
モカベージュの爪が彼女の白く長い指によく合っていた。
指先に集中し俯いたままだったが、ようやく顔を上げ私たちを見た。
強い意志を映すアーモンドのような切れ長の瞳。
栗色に染めたレイヤード・ヘア。
バレエダンサーは黒髪ストレートの人が多いが、彼女は髪を結えるぎりぎりまで段を入れている。
「牧嶋さん、遅かったじゃない!」
不機嫌そうな来栖の声に、私は居心地が悪くなる。
だって……。
「ごめん、ごめん……実は……」
牧嶋が語尾を濁す。
遅れた理由は私なのだ。
私が座席で泣き崩れ、しばらく席を立つことが出来ずにいたためだ。
「ああ……この子ね……一目で分かった……お人形さんみたい……」
眼差しはやや冷たく、見つめられて足がすくむ。
「は、はじめまして……有宮沙羅です! この度はご招待ありがとうございました!」
カチコチに緊張したまま、やっとの思いで挨拶をする。
「……そんなにかしこまらないで……私の方が会いたかったんだから……」
(え……と……)
どういう意味だろう。
会いたいって……。
私の踊りに興味を持ってもらえたの?
「……綺麗な髪……カフェオレ色……」
「……ミルクティです……」
とっさに口にされた無意味な訂正。
「ふ〜ん……こだわりがあるわけ?」
気のせいだろうか。
来栖の言葉からは棘のようなものが感じられる。
「牧嶋さんにDVDを見せられてね……どんな子なのか会って見たかったの……イメージにぴったりだった……」
どんな?
どんなイメージだというのか。
(もしかして……褒めてくれるの?)
そわそわする私に、来栖は思わぬ言葉を放つ。
「……うん。……つまんない踊り方する子だなぁって……」
私はその場でピシリと固まる。
自分の身に何が起きたのかが理解出来なかった。
「ちょっと! 夕舞! そんなことを言うために私達を呼んだの!? 貴重なチケットを送ってまで!?」
いち早く反応したのは牧嶋だった。
「……だってそうじゃない……いかにも基礎通り、先生に教えられた通りに踊りましたぁって感じ……会った印象もまんまだった……見ればわかる……感じられない……気構え? 自分だけのダンスを踊ろうって意欲が……」
けろりとした顔で言われ、牧嶋も私の横で固まってしまった。
「……まぁ、牧嶋さんの好みね……だからDVD見せたくなっちゃたんでしょ?」
苛立った口調。
なぜ? 私の踊りが不満だったとしても、彼女の行動は理解できない。
こんな事を言うために、わざわざ呼びつけたというのか。
「とにかく会えてよかった……納得できたから……」
そう言った後、来栖は再びネイルに没頭していった。
「……あ、……あの……チケットありがとうございました……」
ようやく私は口を開く。
どんな状況であろうと、礼儀を欠かすことは出来ない。
だが、来栖が手元から目を離すことはなかった。
「沙羅ちゃん行きましょう……夕舞は疲れているの……今日はもう帰った方がいい……」
牧嶋に促され、私は楽屋を後にした。
帰り道、私達は公園内のカフェに入り、テラス席に座った。
外はまだ明るく暖かかで、夕風が髪の間を通り抜けていく。
店内は劇場帰りの人がほとんどで、パンフを広げては、熱に浮かされていたように話し込んでいる。
あれは、ほんの数時間前の私と牧嶋の姿だった。
本当なら私だって、夢覚めやらぬまま熱く語りたかった。
来栖に会わなければ……。
「……ごめんなさいねぇ〜」
「……い、いえ……来栖さんは疲れていたんですよね?」
作り笑いを返すも、本当はショックだった。
つまらない踊り方。
人に言われた通りにしか踊れない。
自分はモナコのサマースクールで上達し、だからこそ主役を勝ち取ったのだと信じていた。
だが、彼女の目にはそんな風に映ったのだ。
私は、まだ未熟で修練が足りないということか。
「沙羅ちゃん……気にしない方がいい……夕舞は変わっているのよ……」
「……えっと……気にしてませんから……」
牧嶋に気を遣わせたくなく、あははと笑う。
「本当よ……それでよく人と揉める……楡咲さんも手を焼いているし……」
「……そうなんですね……」
「それにしても……機嫌が悪かったのかしら? 気まぐれなの……まったく!」
「でも、今日の公演は素敵でした……この目で見られて良かった……」
楽屋でのことは悲しかったけど、素晴らしい舞台に触れられたことに感謝すべきだろう。
「……彼女、苦労人だからね……屈折してるのよ……」
「苦労人?」
思いもよらない話だ。
あれ程の才能を持ちながら、どんな苦労をしたと言うのか。
「彼女がプリマデビューをしたのは24歳の時………オーロラ姫に抜擢されたの……あ、今は確か……27……か8ね……」
「最高のデビューじゃないですか!」
「……ところが……ジゼルを見たでしょ? あの通り個性が強いものだから、評判は散々だった……その後、丸一年、主役を踊らなかった……彼女が初めて成功したのは海外での公演で、その後ようやく日本で認められたってわけ……」
「……そんなことがあったんですか……」
主役として認められない辛さなら、私も『白鳥の湖』で経験している。
あの時は悩んだが、所詮バレエ教室の発表会なのだ。
バレエ団トップの重責とは比べ物にならない。
彼女の苦しみがどれ程のものなのか、想像することさえ出来ない。
“所詮バレエ教室の発表会”
自分の思いに驚かされる。
あの出来事をこんな風に考えるなど、予想さえしなかったから。
当時の私は、この世の終わりのように思い詰めていた。
だが、辛い記憶は遠ざかり、忘れ去られようとしている。
「……人間って変わるんですね……」
「どうしたの? 突然?……でも、そうね……人間は変わる。ううん成長するの……沙羅ちゃんのお父さんも、それを分かってくれるといいわね!」
牧嶋は私のことを気にかけてくれている。
彼にはどれ程助けられただろうか。
「……私……留学を認めて貰えるように頑張ります!」
「そう、その調子!……それに沙羅ちゃん強くなった……夕舞にあれほど言われたのに堂々としていたもの……」
「それじゃ私が鈍感みたいじゃないですか?」
冗談めかしたものの、本当は凄く傷ついた。
でも、投げつけられた言葉に振り回されることはなかった。
自分にとって意味あることだけを残し、ネガティブな感情は流すことが出来たのだ。
牧嶋の言葉通り、私は強くなったのかもしれない。
素晴らしい公演に牧嶋との再会。
今日は良い日だったと、私は心から思った。
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