第5話  【ジゼル】第二幕

 ―― ジゼル第二幕


 荒れ果てた沼のほとりに草が生い茂る。

 蔦の絡まる木々の隙間から差し込む一筋の月光。

 微かに聞こえるのは小夜啼鳥ナイチンゲールのさえずり。

 

 ―― ここは夜の森。訪れる人もいない。


 爪弾かれるハープ。

 ヴァイオリンの最高音域で奏でられる儚い旋律。


 鬼火のような白い影が浮かぶ。


 ウィリの女王ミルタだ。


 白いロマンチックチュチュを着て、頭上には白い花輪のかんむり

 これがウィリの衣装だ。


 宙に浮かぶように爪先立ちで歩き、手には白い花を持っている。



 ―― ミルタのソロ。



 ミルタが跳躍し、手にした白い花が舞う。

 高いジャンプは壮麗で、二幕の見せ場の一つだ。


 やがて、花をローズマリーに替え、死せる魂を呼び起こす。


 目覚めたウィリは集まり、夜露に濡れた花のようにたおやかに踊り始める。

 音楽は徐々に活気を増し、やがて宮殿の舞踏会さながらの精彩を放つ。

 

 憧れのバレエ団。

 素晴らしい群舞コールド

 夢にまで見た舞台が目の前にある。


(……私もいつか、あの人たちと一緒に踊りたい!)


 心に誓うように、私は拳を握りしめた。

 

 宴の終わりに、ミルタは新しい仲間を呼び入れる。



 ―― ジゼルの登場。



 まだ新しい墓より歩み出るジゼル。

 ミルタに招かれるままジゼルは進み、腕を胸の前に交差し軸足をプリエし身をかがめる。

 新参者のジゼルには花の冠は与えられていない。

 緩やかな旋律。フルートの音に合せジゼルは歩を進める。

 鋭く鳴る弦楽器ストリング

 突如、テンポはアレグロに変わり、来栖はアチチュードで回り続ける。

 スピード感溢れる回転にも、足のポジションは外れない。

 来栖はターンの後、数種類のジャンプを繰り返し、舞台を移動する。

 素早い展開に、私は驚き、息を呑むばかり。


 一方、ウィリ達はジゼルの墓参りにきたヒラリオンを、躍らせた挙句沼に沈めて命を奪う。


 そして、彼女たちは新たな生贄を見つける。

 アルブレヒトだ。

 彼もまたジゼルの死を悼んで、夜の森を訪れていた。

 天鵞絨ビロードのマント、豪華に刺繍された服。

 その振る舞いは貴族そのもので、陽気な村人の面影はすでに無い。

 

 アルブレヒトはジゼルと再会し、変わり果てた姿に哀しむ。

 ジゼルは「見つかれば殺されてしまいます。今すぐに逃げて!」と懇願するが、別れを惜しむうちにウィリに捉えられてしまう。


 ジゼルはミルタに命乞いをするも冷たく拒絶されるだけ。

 ジゼルはアルブレヒトを自分の墓へと導き、ここを離れないようにと告げる。

 墓石に添えられた十字架が彼を守り、ミルタもアルブレヒトに手を出すことが出来ないのだ。


 だが、ミルタは冷酷な命令をジゼルに下す。

 「アルブレヒトの前で踊れ」と。

 ジゼルは女王ミルタに逆らうことは出来ない。



 ――ジゼルとアルブレヒトのパ・ド・ドゥ。



 甘美なヴィオラの音色。

 来栖はルティレから横に高く足を上げる。

 

(……なんだろう……ものすごくゆっくり……重苦しいくらい……)


 私のウィリのイメージは、宙に浮かぶふわふわとした精霊だった。

 だが、来栖のそれは、もどかしいほどに重い。

 水槽で揺らぐ藻のように、ねっとりとしたアームスの動き。

 スピード感のある回転とジャンプを見た後なので、彼女がこのように踊ることが意外だった。

 来栖には意図するところがあると、私は確信を持つ。

 そう。彼女が表現しようとしているのは、空間そのものなのだ。


 奥深き森の暗闇、静けさ、冷たさ。


(……どうしたの? ……場内が暗い……?)


 視界が遮られたように感じ、慌てて目を擦る。

 一瞬、来栖が闇に覆われているように見えた。

 まるで、彼女の周りだけ、別の空気が流れているかのように。


 暗闇は来栖の姿を際立たせ、人ならざる者の世界が現れる。

 それはウィリとなった娘たちの孤独でもあるのだ。

 人から忘れ去られる悲しさ、寂しさ。


 アルブレヒトと再会しても、喜ぶことの出来ない口惜しさ。

 変わり果てた自分を恥じ入る心。

 ジゼルの生前の記憶は未だ鮮明で、苦悩も深い。

 

 一幕終盤の記憶が私の中で蘇り胸が痛くなる。

 鮮烈で痛々しい、ジゼルの悲しみだ。

 

 来栖は一幕と二幕を踊り分けているだけではなく、繋がっているのだ。

 二幕のウィリとなったジゼルの中に、一幕の溌剌はつらつとしたジゼルが生きている。

 また、一幕のジゼルの中に二幕の悲劇を予感させるのだ。

 完璧な二役の融合。

 これは容易に出来ることではない。


 ジゼルに魅せられたアルブレヒトは、墓を離れふらふらとジゼルに歩み寄る。

 ミルタの魔力に引き離されながらも、寄り添う二人。

 二人が思いを確かめ合う、美しく幻想的な場面だ。


 だが、墓から離れたアルブレヒトは神の加護を失ってしまった。

 生き延びるためには踊り続けなくてはならず、力尽きれば、ヒラリオン同様死へと追いやられるのだ。


 命を懸けた舞踏が始まる。


 ダンスは果てしなく続き、もはや微かな希望さえ見えない。

 アルブレヒトの限界はとうに過ぎ、意識が朦朧とする中踊り続ける。

 彼を助けるために、ジゼルは励まし続ける。

 ジゼルは自分の苦しみを忘れ、アルブレヒトを救うことを望んだのだ。

 絶望的な状況に立ち向かうジゼルには悲壮感さえ漂う。


 私は来栖の踊りに心を奪われていた。

 

 滑るように移動し、ターンをしながらジャンプ。

 そして跳躍の最も高い位置でアラベスク。

 方向を変えながらそれを繰り返す。 

 空中での静止ポーズは一瞬のことで幻のように思えた。

 だが、高速カメラの画像のように、鮮明なイメージを脳裏に焼き付けていく。


 最後の時が近づいた。

 アルブレヒトは力尽き、懇願するも突き放される。

 ウィリ達のダンスは激しさを増し、アルブレヒトに死の宣告を突き付ける。



 ―― 時を告げる鐘の音。



 耳を傾けるウィリ。

 遠くの空に一筋の光が差し込み、徐々に広がっていく。

 空は白み、紫から薄紅へと夜明けの訪れを知らせる。


 ウィリは魔力を失い、墓の影へと姿を消していく。

 アルブレヒトの命は助かったのだ。


 アルブレヒトはジゼルを引き留めようとするが叶うはずもない。

 彼女もまた消え去るのだ。

 互いに惜しみながらも、永遠の別れが訪れる。

 アルブレヒトは残された花を手に、失った愛を思う。



 ―― 二幕の終了



 どっと、湧き起こる歓声。

 拍手の嵐に飲まれ、私は涙を拭うことさえ忘れる。


 来栖はジゼルの深い懊悩、心の闇を大胆に表現した。

 ジゼルの苦悩が深い程、彼女の献身が顕わになり、感動を呼び起こす。

 これほどまでに衝撃的なジゼルがあっただろうか。


 私は体中が震え、立つことさえ出来ずにいた。 


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