第3話  【ジゼル】第一幕

 開幕のベルが鳴る。


 場内の照明は落とされ、オーケストラボックスの明りが周囲を照らす。

 

 私は期待に胸を高鳴らせ、幕の上がるのを待つ。


 ―― 一幕。


 渓谷の山並みを望む農村の風景が広がる。

 季節は秋。丘には葡萄がたわわに実り収穫を待つばかりだ。


 枝ぶりのよい木のかたわらに二軒の家が建っている。

 夜がまだ明けきらぬ中、一人の男が狩の獲物、きじを手に家の戸口を叩く。 

 彼の名はヒラリオン。村の青年だ。

 中年の女性が現れ、雉を受け取ると、喜び礼を言う。

 上機嫌の女性にヒラリオンは気をよくする。彼女はこの家に住む少女、ジゼルの母親だ。

 彼はジゼルに恋をしている。だから、母親にも好感を持ってもらいたいのだ。

 名残惜し気に立ち去ろうとすると、高価な衣服を纏った二人連れを見かける。

 彼等は貴族アルブレヒトとその従者だった。

 アルブレヒトは家に入ると、粗末な農民の服に着替えて出てきた。

 従者は彼をいさめるが、アルブレヒトはそれを聞き入れず従者を立ち去らせる。

 その様子を見たヒラリオンは怪しみ、物陰に潜んで様子を窺う。


 アルブレヒトはジゼルの家の前に立ち、ノックをすると家の影に隠れてしまう。


 ―― ジゼルの登場。


 ぱちぱちと拍手が起こる。


 可憐な村娘ジゼル。

 明るく天真爛漫で、素直な愛らしさが人を魅了して止まない。


 ジゼル役の来栖は女性らしく、“美人”という言葉の方が相応しい。

 足取りや身振りで、純朴な少女を演じているのだ。

 それにしても凄い人気で、観客が彼女の登場を待ちかねていたのがわかる。


 リズミカルなステップに愛らしい仕草。

 すべてが心を惹きつけ離さない。


 ノックを心待ちにしていたのに、戸口には誰もいない。

 がっかりとして家に戻ろうとすると、アルブレヒトにばったりと出会う。

 恥じらうジゼルの可憐さに、心打たれるアルブレヒト。

 気持ちの高まりのまま、愛を誓うアルブレヒトに、ジゼルは花占いを持ち掛ける。

 花弁を散らしながら、良くない結果を察知し気落ちするジゼル。

 アルブレヒトは花を受け取ると、こっそり細工をしてジゼルを安心させる。

 “”ほら大丈夫! 二人は幸せになれるよ!”と。

 

 気を取り直したジゼルとアルブレヒトのダンス。

 恋する二人の前に、突如ヒラリオンが物陰から飛び出す。


 ヒラリオンはジゼルに「こいつは怪しい! 君は騙されている!」と説得するが、ジゼルは戸惑うばかり。

 彼は他の仲間のように朗らかでなく、粗野な振る舞いをする。

 ジゼルはヒラリオンが苦手だった。


 アルブレヒトは逃げるジゼルをかばい、ヒラリオンの前に立ちふさがる。

 勝ち目がないことを悟ったヒラリオンは、アルブレヒトの正体を暴こうと決意し、退散する。

 

 やがて村娘達が葡萄狩りへ行くために集まり、ジゼルとアルブレヒトは彼女等と踊る。


 ジゼルは胸に苦しさを覚えながらも踊り続ける。


(……目が離せない……踊りも演技も上手いから……)


 でも、それだけじゃない。

 何かが棘のように刺さる。

 幸福そうな姿に危惧し、胸騒ぎを覚えるのだ。


 不思議だと思う。

 明るく可憐で、誰からも愛される村娘。

 目の前のジゼルは生きる情熱にあふれ、輝きを放つ。

 ジゼルはアルブレヒトを愛している。

 離れていても彼の姿を目で追い、彼の笑顔だけを見つめる。

 彼以外を全く見ていない。仲間も母親さえも。


 眩しい程の鮮烈さが私を不安にさせ、熱を帯びたような眼差しが緊張感を呼び起こす。

 こんなジゼルは初めてだった。


 『ジゼル』は一幕のジゼルが幸福なほど、後半の悲劇が際立つ。

 だが、心がざわざわと揺れるのはそれだけではない。

 ジゼルを待つ運命を知っているためか。

 違う。そんなことではないのだ。


 やがて、狩りに出た公爵一行が、木陰を求めジゼルの家に立ち寄る。

 ジゼルの母親は恐縮しながらも心尽くしのもてなしをする。

 その中に美しい貴婦人が一人。アルブレヒトの婚約者バチルドだ。

 彼女に見とれるジゼルをバチルドは気に入り、互いに恋の話をする。

 侯爵令嬢の指には婚約指輪があった。


 公爵一行と入れ替わりに、収穫から戻った村の仲間たちがジゼルを呼ぶ。

 彼らはジゼルを収穫の女王に選んだのだ。


 喜んだ彼女は母親に踊りたいとねだるが、母親は容易に許さない。

 ジゼルは生まれつき心臓が弱いのだ。

 しかも、未婚で死んだ娘はウィリとなって夜の森を彷徨うと聞く。

 踊りたいと、可愛らしくねだるジゼルに、それを応援する仲間たち。

 「しかたないわね……」と、母親が折れ、ジゼルは踊り始める。


 ―― ジゼルのヴァリアシオン。


 ポーズからアラベスク。後ろに伸ばした足を前に出し、その足を軸足にしてジャンプ。方向を変えて着地した足をプリエ、もう片方の足を体の前に伸ばす。


 一瞬の間にステップがいくつもあるのに、隙が無い。

 きっとコマ撮りで撮影しても、ポジションの崩れはないだろう。


 軸足で爪先立ちしてク・ドゥ・ピエに足を打ち付ける。

 細かな足さばきも完璧で、私は言葉も無く見とれるだけだった。


 踊れる喜び、愛し愛される幸せ。

 ヴァリアシオンはそんなジゼルの心情を表現するものだ。


 爪先立ちしたまま、ルティレした足を前に伸ばす“バロネ”をしながら移動する。

 腕の動きは優しく、愛情深さを表すように。

 このヴァリアシオン見どころだ。

 体の軸がぶれることのない、完璧な“バロネ”だった。

 ヴァリアシオンの最後は、連続するターン。

 ターンで舞台を移動し、ポーズをすると、どっと歓声が沸き起こった。

 

 収穫を喜ぶ村人たちが踊る中、ジゼルとアルブレヒトが抱き合う。

 花占いは当たらない。自分が不幸なるなんてあり得ない。

 ジゼルは幸福に酔いしれていた。 


 ……が、


 ――ヒラリオンの登場。

 

 彼は高価な服と、装飾の施された剣を突き出し、アルブレヒトの正体を暴露する。

 そして、角笛を吹くと公爵一行が戻り、アルブレヒトの粗末な身なりに「何事か?」と訝る。

 焦ったアルブレヒトはバチルダの手に接吻し、それを見たジゼルが二人を引き裂こうと間に飛び込む。


 ―― ジゼルの狂乱。


 バチルダに婚約指輪を見せられたジゼルは、髪を振り乱して錯乱する。 

 今や仲間やヒラリオンの慰めも耳に入らない。


 切り裂くようなヴァイオリンの音。

 ジゼルの心は壊れ、舞台は一気に悲劇へと雪崩れ込む。

 

 なんて激しいジゼルなのだろう。

 胸が締め付けられるようだ。


 同情? 共感?

 

 そんな生易しいものではない。

 

 私は衝撃的な舞台に打ちのめされそうだった。


 ―― ジゼルの死。


 突然の不幸に嘆き悲しむ村人達。

 胸をえぐるような母親の慟哭。


 ジゼルは正気に戻ることなく息を引き取る。




 ―― 一幕の終了







 ※ ルティレ

 軸足の膝に、もう片方の足の爪先を付けるポーズです。


 





 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る