第2話  開幕前

 ジゼルに抜擢された週の土曜日。

 レースの付いたワンピースを着、小さな手提げを持って家を出る。

 バレエ公演の観劇に行くのだ。

 劇場は都会の緑豊かな公園の中。

 開演は十四時で、私は牧嶋と一時間前にロビー前で待ち合わせた。

 互いに挨拶を交わすと、売店でパンフレットを買い、劇場内にあるカフェに入る。


「ひさしぶり……元気だった? それにしても、入学早々主役ジゼルに抜擢なんて凄い! 沙羅ちゃんの実力なら、楡咲の生徒に引けはとらないけれど……」


「ありがとうございます……」


 サマースクールの終了を報告しているが、ゆっくりと話す機会は今までなかった。

 牧嶋は仕事で忙しく、私は新しい生活に馴染むのに必死だった。

 だが、ようやく会う機会を得られた。

 留学の話、入学したばかりの楡咲バレエ学校での近況。

 牧嶋にはいろいろと話したいことがあった。

 ……相談したいことも。


「どうだった?……モナコ……」


「最高でした! バレエに専念できる生活っていいですね……サマースクールは一週間だったけど、もっといたかった……」


「よかった……長期留学は考えてない?……一年とか?」


「……サマースクールの終了の時、デュカスさんに勧められました……でも……」


 相談したいのはこの件だ。


 モナコでのレッスンは素晴らしかった。クラッシックだけではなく、コンテンポラリーと呼ばれる古典の型にとらわれないダンスのレッスンも充実していた。

 自由に表現できるダンスはわくわくと刺激的だった。

 絶対にここに長期留学をしたい。

 意気揚々と帰国した私に、厳しい現実が待っていた。


「……何か問題でも?」


 俯く私に牧嶋が問いかける。


「父に……反対されているんです……」


「どうして……?」


「……それが……バレていたんです。……私がバレエを辞めるつもりだったこと……」


 父の反対の理由は「怪我が治った後、すぐにレッスンを再開しなかった」こと。

 父は私のモチベが下がっていたことを見抜いていた。

 私は発表会で挫折した後も、怪我をするまでも変わらずレッスンを続けていた。

 だから、自分の本心を隠せていると思っていた。

 ところが、父にはお見通しだったのだ。

 父は、今まで見たことも無い険しい顔をして、「一度やる気をなくした人間が、これから先も同じことが起こらないと断言できるのか?」と、私に尋ねた。


「……返す言葉もありませんでした……私は挫折してバレエを辞めようとしていたんです……」


「……そうだったのね……でも、慎重になるのは仕方のないことよ……留学してもダンサーになれるとは限らないし、諦めて進路変更をしても、他の学生と比べて進学も就職も難しくなるから……」


「……私も父の気持ちはわかります……」


 そうなのだ。

 例え心折れること無くとも、自分の希望通りになるとは限らない。

 バレエを職業とすることは、後戻りの出来ない狭い道を歩くようなものだ。


「……信頼は徐々に回復していくしかないわね……沙羅ちゃんさえ頑張ればいつか分かってくれる……それよりも、……今日の演目は最高よ!」


 と、言って買ったばかりのパンフレットを取り出した。


「楽しみ! ジゼル役の来栖夕舞くるすゆまさんは海外でも大成功を収めたんですよね!」


 そう! 今日はバレエ鑑賞に来たのだから、留学のことは別の日に考えよう。


「彼女の踊りは素晴らしいわよ! それにね、このミルタ役の……」


田中美幸たなかみゆきさんですよね? 英国のバレエ団に在籍中の……」


 牧嶋の言葉を興奮した私が遮る。


「でしょ? このアルブレヒトも……」


 一流のダンサーが集結する夢の舞台。

 これぞドリームチーム。

 即日完売で諦めていたのに、観られるなんて信じられないほどの幸運だ。

 しかも、自分も主役ジゼルを演じるのだから、運命的なものを感じずにはいられない。


 私は、熱に浮かされたようにパンフレットめくる。


 『ジゼル』は、村娘ジゼルと貴族アルブレヒトの悲恋を描いた物語で、全二幕の構成だ。


 ジゼルは誰からも愛される可憐な村娘。

 体が弱いものの、ダンスが好きで「結婚を前に亡くなるとウィリになる」と母親に諭されるも踊ることを止められずにいる。

 ウィリは白い羽を持つ精霊で、出会った男を死に至るまで躍らせる。


 一幕の終盤、ジゼルはアルブレヒトに婚約者がいることを知り、ショックで息絶えてしまう。


 二幕では、ウィリとなったジゼルがアルブレヒトの命を救い、朝の訪れと共に去っていく。


 一幕ではのどかな農村、二幕は暗い夜の森が舞台となる。

 ジゼル役のダンサーは、明るい村娘とウィリの二役を踊り分けなくてはならない。

 技術だけではなく、高い演技力が求められる難しい役だ。


「来栖さんのジゼルが見られるなんて夢みたい……」


 感極まる私を、牧嶋が小さく笑った。


「……何か変なこと言いましたか? 私……?」


「……いいえ。夢のような舞台よ。それくらい素晴らしいの……」


 牧嶋の言葉には含みがある。

 自分は何かおかしなことを言ったのだろうか。

 憧れの舞台を前に、心躍らせる私。

 だが、それがこの場に不釣り合いなことに思えてきた。

 これから何かが起こる。

 そんな予感がするのだ。


「さあ、行きましょう……余裕を持って席についた方がいい……」


 牧嶋が笑みを浮かべ、私達は観覧席へと向かって行った。




 



 

 

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