第二章

第1話  新しい生活

 九月。

 夏の名残を残しながらも、澄んだ空が秋の深まりを教える。


 モナコから戻った私は、今日楡咲にれさきバレエ学校の入学試験を受ける。

 この試験では、ヴァリアシオン等の高度な振り付けを踊るわけではなく、私の基礎的な力を試すことが目的とされる。

 試験官の指導に従い普段通りのレッスンを受ける。

 まずはバーレッスンから。

 教師たちがメモを片手に、私を凝視している。


 筋力、柔軟性、ポジションは守られているか。

 あらゆる面でチェックを受けた。


 緊張はするけど、不安はなかった。

 いつも通りに練習をすればよいのだから。


 バーを離れてアダージョのレッスン。


 足をア・ラ・スゴンド(横)に高く上げ、そのままキープ。

 ア・ラ・スゴンドの足を、円を描くように後ろに回して“アラベスク”。

 そして上体を前に傾ける“パンシェ”でキープ。


 キープの長さに、教師たちが感嘆の溜息をもらす。


 モナコのサマースクールは一週間だったけど、人に見せる意識が身に付いたと思う。

 一つ一つのポーズ決めながらも、自然な流れを出すことができるようになった。


 次はワルツを踊る。


 メロディーを聞きながらも、私自身が音をリードするのだ。

 旋律のアクセントを捉えながら、体を使って音楽を目に見える形に表現する。


「いいですね……有宮さん、入学を許可します!」


 私の入学許可は、審査員の満場一致で決定をした。



 その日から、私の新しい日常が始まった。

 放課後は、まっすぐ楡咲バレエ学校へと向かう。

 

 楡咲バレエ学校は、都心に隣接する閑静な住宅街にあった。

 駅前にあるバレエ団の稽古場から、歩いて五分ほどの場所で、賑やかな商業施設や商店街を抜けた場所に位置する。

 木造二階建てのそれは一見すると住居用の家屋に見える。

 駅からの坂を下りると、薔薇の木が植えられた庭に迎えられる。

 花の見ごろは春と冬だと、誰かが言っていた。

 一階に事務室と校長室、その奥に更衣室と予備の練習場があり、二階が生徒用の稽古場になっている。


 私はAクラスに入った。

 Aクラスは高校生以上が対象で、その下にあるBクラスは中高生から。

 Bクラスまでは自動的に進級できるが、それ以上は実力によって振り分けられる。


 入学から既に二週間が経とうとしていた。

 

「こんにちは!」


 背後から、金糸雀カナリアの囀りのような声がする。


「鈴音!」


 声の主は白川鈴音しろかわすずね

 私と同い年の小柄で華奢な少女だ。

 くるっとした丸い目が表情豊かで可愛らしい。


 挨拶を返しお喋りをしながらバーにつくとストレッチを始める。


「モナコのサマースクールへ行ってきたんでしょ?」


「すっごくよかった!」


「今度教えてね……私も留学したいと思っているの……」


 レッスン時間になり、教師がやって来た。

 私達はお喋りを止め、レッスンに集中する。


 そう……


 一番ファーストポジションから始めるのだ。




「ふみゅ〜ただいま……」


 バレエ学校は都心にあり、学校から真っすぐ向かっても一時間かかる。

 レッスンには間に合ものの、帰宅が遅くなるのだ。


 「おかえりなさい」と母に迎えられ、食事を済ませると勉強の時間だ。


 移動に時間が取られるために、学業との両立はハードだ。

 勉強机に突っ伏したまま寝てしまったこともある。

 だが、

 「学校での成績を落とさないこと」

 これは子供の頃からのバレエを続ける条件だった。

 厳しいようだが、中学生から親元を離れて通う生徒もいるのだから、甘えるわけにはいかない。


(……それにしても……眠い……)


 眠い目を擦りながら宿題と予習を済ませ、浴室へと向かう。


 バスタブの蛇口をひねると、ほわりと湯気に包まれる。


 温かい湯気が心地よく、眠気と戦いながら、入浴の準備を整えた。 


「ふみゅー」


 湯に身を沈めると、ほっと溜息が零れる。

 どんなに疲れていようと、このひと時を欠かすことは出来ない。

 ゆったりと湯につかれば、体から疲れが抜けていく。


「ふみゅー」


 今日一番の安らぎタイム。

 入浴が終われば、後は寝るだけ。

 疲れた体を引きずり部屋へと向かうと、母に呼び止められる。


「……沙羅ちゃん、届いてる……」


「えっ!」


「じゃ〜ん!」


 母が四角いものを私の目の前でちらつかせる。

 絵葉書だ。


「どうして、もっと早く言ってくれなかったの!?」


 母を急かし、彼女が手にした葉書を素早く受け取る。


 結翔からのものだ。


 結翔はメールやメッセージ以外にも、こうして手紙や葉書を送ってくれることもある。

 大聖堂のある町の絵葉書だ。

 結翔の巡礼が終わるのは九月末で、旅は終盤にかかっている。


 送られてきた動画や画像を見て思うのは、スペインは広いということ。

 道中、賑やかな街もあるが、それ以外はメセタと呼ばれる不毛な大地をひたすら歩くのだ。


 変わることの無い景色が何処までも続き、結翔は道を歩き続ける。

 それでも宿での画像はどれも楽しそうで、現地で知り合った仲間と食事をしているものもあった。


 結翔は日焼けをし、日本にいた時よりもたくましく見える。

 

 でも……。

 早く会いたい。


 今はただそう思うのだった。




 翌日の放課後、いつも通りにバレエ学校へと向かう。

 門をくぐり稽古場へと向かうが、何か様子がおかしい。

 皆が落ち着きなくそわそわとしている。


 周囲を窺いながらストレッチをする私に、声をひそめて鈴音が話しかける。


「……沙羅……いよいよね……」


「いよいよって……何?」


「沙羅は来たばかりで知らないのね。今年は十二月に発表会があるの……それでね、今日演目と配役が発表されるの……」


「どうりで雰囲気が違うと思った……」


 城山バレエ教室での光景を思い出す。

 私もああして、発表を待っていたのだ。


「……私も出演したい……」


「何言ってるの! 沙羅だってAクラスなんだから出演できるってば!」


「……で、でも……」


 遠慮はするものの、やはり鈴音の言うとおりになればいいと思う。

 群舞コールドでいい……いや、やはり役に付きたい。


 生徒たちが待ちかねる稽古場に、教師がいつもより早くやって来た。


「……今日はお話があります……発表会の演目が決まりました……」


 いきなり本題に入り、心臓の音がドキリとする。

 教師はレッスン場をぐるりと見渡した。


「今年の演目は『ジゼル』全幕です」


 わっと上がる歓声。


 『ジゼル』は、村娘ジゼルと貴族アルブレヒトの悲恋を描いた物語だ。

 主人公ヒロインは、一幕では可憐な村娘、二幕では精霊ウィリとなる。

 違った役柄を演じ分けることが、見どころの一つとなっている。


「今回の発表会はBクラス以上の生徒全員が参加できます」


 私も含め、中学生以上は全員参加できるということだ。


 「ねっ!」と言うように、鈴音が目配をし、私は微笑み返す。

 まずは一安心だ。


 そしていよいよ……。


「配役を発表します……ペザント岬弥生さん。……ミルタ赤城咲良さん……お付きは……」


 配役の発表が徐々にされ、いよいよ主役のジゼルだ。


 生徒たちが固唾を飲んで見守る中、教師が口を開く。


「……ジゼル役は……有宮沙羅さん……」


 わっと声があがり、直ぐにひそひそとした囁きに変わった。

 波紋のように広がるざわめきに騒然となる稽古場。

 私は何が起こったのかが分からず、呆然とするだけだった。

 自分の耳を疑わずにはいられない。

 なにせ、私は入学して一か月と経たないのだ。

 自分に向けられた視線が刺さるようだ。


「……あ、あの……よろしいでしょうか……」


 一人の生徒がおずおずと手を挙げ、教師が発言を許可する。


「……あの……先生……有宮さんは、まだ楡咲に来て間もない方です……事情がわからないのではないでしょうか……?」


 控えめではあるが、彼女は明らかに抗議をしているのだ。


「事情って何ですか? 有宮さんは何がわからないと言うのですか?」


 教師が尋ね返した。


「……あ、あ……その……」


 返答できずに生徒が口ごもる。


「……これは、教師陣全員の賛同を得ての配役です……有宮さんの実力は、彼女の入学試験で確認済みです。基礎の正しさ、体の柔軟性、音楽性……何一つ、誰にも引けを取りませんでした……主役を踊るのに、他に必要なことはありますか?」


「……い、いえ……」


 抗議者は青ざめたまま俯いてしまった。

 教室内はしばらくの間沈黙に包まれていたが、


「おめでとう沙羅!」


 鈴音の声が明るく響いた。

 

「やったね! 沙羅。私は沙羅が適任だと思った!」


 快活な声は高田光里たかだひかり


 やがて、口々に私を祝福する声が発せられ、それは次第に大きくなっていった。

 

 今日、私は少女達の頂点に立った。

 誰もが主役級の実力を持つ楡咲バレエ学校で。


 ―― 私は、主役ジゼルを踊るのだ。


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