第60話  【間奏曲】ー魔法使いの杖ー

 午後七時。

 ワインバー『ange』。


 扉には『本日臨時休業します』という張り紙。

 客達は諦めて別の店を物色し始める。

 

 店内では、一人の中年男性が受話器片手に溜息をつく。

 電話を掛けるべきか、やめるべきか……と。

 彼はこのワインバーの主だ。


 こういう仕事をしていると、いろいろな噂話が耳に入ってくるものだ。

 彼は常にそれを記憶に残さないようにしている。

 忘れるということがこの仕事には必要だから。

 だが、完全に消え去るわけではない。特に悪いものは。

 例えば、誰それが投資で大損をしたとか、それを埋めるための借金を踏み倒した上に、督促の電話にすら出ないだの……。


(……うんざりだ……)


 彼は、客の問題には踏み込まないようにしている。

 客の問題には……。

 でも、自分の金となれば話は別だ。


 それに少しばかりの義侠心というのもある。

 善良な青年が、不当な苦労を押し付けられるのを、むざむざと見逃すことはできない。

 気が重いが、やるべき時にはやらなくてはならないのだ。


 受話器を手に電話を掛ける。この番号を手に入れるためには苦労した。 

 忘れ物を預かっているからと、つかなくていい嘘もついた。


 やはり出ない。噂は本当だったのだ。

 あの男は、旧知の同僚たちの借金をこのまま踏み倒すつもりなのだ。


 スリーコールし電話を切る。

 そして、もう一度。


 ――出た。


 “もしもし”という声が興奮のために震えている。今、男は天にも昇るような心持だろう。

 待ちに待った、人事からの緊急の電話だと信じ込んでいるのだから。

 “これで本社に戻れる”そんなムシのいいことを考えているのだろうか。


(気が滅入るな……)


 ―― スリーコール伝説


 根も葉もない都市伝説を信じる稚拙な人間。

 だが、そんな男が人の弱みに付け込み、罪のない青年を騙したのだ。


 苛立ちを抑えて、彼は言うべきことを言う。


 盗んだ金を返しなさい。それから他の債権者達にも連絡をとり、どれほど時間がかかっても、必ず返済すると約束をしなさい。さもなければ、彼らは君と話を付ける前に警察に通報するだろう。


 電話の向こうの声は震えている。逮捕されるとなれば当然のことだ。

 

 まずは店から盗んだ金を返すようにと、男を説得し了承させる。

 借りることと盗むことでは、その差は大きい。

 要求を呑まずにはいられないはずだ。


(……この辺にしておくか……)

 

 彼は、人とは距離を保って接してきた。

 でも、時には魔法使いのように、こっそりと人助けをしたくなることもある。


 若い二人が手をとり合い、喜ぶ姿が目に浮かんだ。

 思わず緩む頬。

 これ以上の報酬はないだろう。


 人知れず手助けをする。


 そんな天使のような魔法使いがいた方が、世の中が楽しくなるじゃないか。


「……さて……と……とっておきのやつを開けるか……」


 彼はお気に入りのボトルに手を伸ばした。





 朝、ガタガタという物音で目が覚めた。

 【左側】に人のいる気配がする。

 私はベッドから飛び起きると、慌てて身支度を済ませ、部屋の窓を開けた。


「……誰かいるの?」


 私の声に、窓から顔を出す人がいる。


「やあ! 沙羅ちゃん!」


 結翔。

 結翔だ。


「今、そっちに行くから」


 結翔は、作業を中断して空中庭園へと出た。


「……ごめん……挨拶もしないで、あのまま帰ってしまって……」


 あの霧雨の夜、結翔は家に戻り、そのまま帰ってこなかった。

 喜びながらも、私は寂しい思いでいっぱいだった。

 でも、ようやく会うことができたのだ。


「……ううん……」


「父に引き留められて……」


「……よかった……紬ちゃんから聞きました……」


「そっか……今日は荷物を取りに来たんだ。とりあえず着るものとか……家具や食器なんかは後から……バイトは辞める……オーナーの体調が回復して、少しずつ夜の仕事もできるようになるだろうって言っていたから安心だよ……」


「よかった! オーナーさんも元気になられたんですね?」


 結翔は、実家に戻る準備を着々と進めている。

 このまま会えなくなるのだろうか。

 そんな寂しい気持ちは、結翔の言葉で吹き飛んでしまった。


「あ、そうだ……沙羅ちゃん……お金が戻ってきたんだ!」


「え!?」


「オーナーの家のポストに入っていたそうだよ」


「よかったぁ。……じゃぁ……」


「うん、……夏休みにはスペインに行ける……」


 何があったのかは知らないけど、とにかくよかった。


「……そうだ! 私も知らせがあるの……」


「なに?」


「モナコのバレエ学校のサマースクールに参加することになったの!」

 

「ほんと? すごいね……あ、でも……もう、大丈夫なの?」


「うん! なんとか……役を作り上げていくっていうことが、ほんの少しわかったような気がするの。難しいかもしれないけど、頑張ってみる。役作りのためには、いろいろな経験が必要なの。だからサマースクールもきっと私のためになる……」


「俺もそう思う!」


 結翔が晴れ晴れとした笑顔を見せた。

 

 心配かけていたのね。私。

 ……ありがとう結翔。


「……あとね、もう一つ大切な知らせがあるんだ……父と秋絵さんが結婚する……まだ日取りは決まってないけど、式も挙げる……もうすぐ一緒に暮らすんだ……」


「おめでとうございます!」


 まるで魔法使いが杖をふるったみたいに、すべてが良い方へと変わってしまった。

 まるで夢のようだと思う。

 沢山の思いが胸に込み上げ、私は俯き目頭を押さえる。


「ど、どうしたの……沙羅ちゃん? 大丈夫?」


「……ううん。嬉しくて……嬉しくて……私……」

 

 突如舞い込んだ素晴らしい知らせ。

 涙を堪える私の肩を、結翔がそっと抱いた。



 暗闇は姿を消し、新しい日々が始まる。

 曙の女神アウローラが光をもたらしたのだ。

 夢のような喜びに、私の心は微かに震えた。





 

*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜

 

 オーロラ姫の名前の語源は、ギリシャ神話の曙の女神アウローラです。

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