第58話  【眠りの森の美女第三幕よりオーロラ姫のヴァリアシオン】ー私は伝えたいー

「オーロラ姫のヴァリアシオンを踊ります」


 ……ふっ……。

 

 誰かが微かに鼻で笑う音がした。


 真希の後に踊る私への憐れみだろうか。

 しかも地味なオーロラ姫。


 だが、そんなことに構っている暇はないのだ。


 一礼の後、定位置につく。

 もう後には引けない。


 体の前で手首を交差させ、準備のポーズプレパラシオンで音楽を待つ。

 気持ちが高まり、指の先まで神経がいきわたる。

 震えるほどの緊張を抑え、唇に笑みを浮かべる。

 

 ここは舞台。

 目の前にいるのは観客。

 

 ――そして私はダンサーなのだ。


 『眠りの森美女』第三幕。

 百年の眠りから覚めたオーロラ姫とデジレ王子が結婚式を挙げる、このバレエの中で最も華やかな場面だ。

 国内外の賓客と、宝石の精、おとぎ話の主人公達がお祝いに駆けつける。

 そして、これから私が踊るのは、王子と踊るパ・ド・ドゥの中の女性舞踊手のソロの踊りだ。


 音楽が二拍子のポルカのリズムに乗って、少し早めの速度で演奏される。

 

 ドルチェの曲想は優しさを、イ長調の旋律は典雅で、それでいて伸びやかな印象を聴く者に与える。

 

 可憐で優しくおおらかで、それでいて王族の気品と優雅さを備えた女性。

 

 この曲は、すべての美徳を備えたオーロラ姫そのものだ。

 

 私は踊りでそれを表現する。

 

 ―― 観客に伝えるために。


 アチチュード。

 片方の脚を軸にして立ち、もう一方の脚の膝を約90度に曲げて体の後ろで持ち上げる。

 これはダンサーの足を美しく見せるポーズ。

 

 腕は若木の枝のようにしなやかに、足は生まれたての小鹿のように初々しく。

 そして丁寧に。

 基本に忠実であることでしか、この踊りは表現できないのだから。


 子供の頃、城山先生の教室で、

 

 「オーロラ姫は地味で退屈」

 

 そう言って、コンクールに派手なヴァリアシオンで出場した上級生がいた。

 確かに個性的な見せ場が無く、今いる候補者達の中でも目立たないかもしれない。

 

 それでも私はこの踊りが好き。

 愛する人と結ばれるオーロラ姫の喜びを思えば、幸せな心気持ちになれるから。

 

 今日は調子がいい。

 このヴァリアシオンは約2分。もしかしたら、このまま持ちこたえることができるかもしれない。

 僅かな希望が見えてきて、少しだけ気持ちが楽になる。


 “シソンヌ”。

 両足で踏み切った脚を、空中で前後に伸ばして片足で着地する。

 フライパンで弾ける豆みたいに。

 上体は柔らかく。

 

(……あっ……上体の動きが硬くなった……)


 大丈夫。

 

 気を取り直して踊りを続ける。


 音楽は徐々にピアニシモになり、ク・ドゥ・ピエをしながら移動。

 足の動きは小さく、軽く、弾くように。

 そして、体の前で手首を交差させて静止ポーズ


 初めの主題が、1オクターブ高い音域でややしっとりと奏でられる。


 ―― ピアノの音が素敵。


 音の粒が宝石みたいにキラキラと体に纏いつく。

 肩に腕に指先に……。

 それに見とれるように、ゆっくりと両腕を下から上へと上げていく。

 

 後ろに脚を伸ばしてアラベスク。

 ターンしてドゥ・ヴァンへ脚を蹴る。


 永遠の愛を誓う結婚式に、参列者への感謝を込め、オーロラ姫はダンスを踊る。

 でも、誰よりも見て欲しいのは愛する人。

 最愛の王子の視線を感じながら踊るの。

 

 ロココの宮廷の大広間。着飾った貴婦人達に、花瓶から零れる朝摘みの花。

 水晶クリスタルのシャンデリアに金の燭台。大理石の床。

 青い鳥にフロリナ姫。赤ずきんちゃんに狼。長靴を履いた猫とシンデレラ。

 童話の主人公達が踊る夢の国。

 

 でも、夢じゃない。だって、幸せになりたい、愛する人と結ばれたいと願う思いは私達と同じだから。

 

 『想像して近づけるの』

 牧嶋の言葉を思い出す。


 夢のような一日は、二人で支え合い、王族としての務めを全うすることを誓う日でもあるのだ。

 

 役の心に思いを巡らせたとき、役と私の心が繋がる。

 

 ――私は伝えたい。


 オーロラ姫の喜びを、未来を夢見る力と希望を。

 そうすることで、私は自分だけの踊りオーロラを踊ることができるのだ。

 

 音楽はドラマチックなフォルティシモへと変わり、美和の演奏に力がこもる。


 さあ、いよいよ“エカルテ”!


 “エカルテ”は、体を斜め向けて自分の横に脚を出すバレエのポジションの一つだ。


 まずは“シャッセ”。

 片方の足を出し、もう片方の足を素早く引き寄せる。

 そのまま上に伸びて“シュス” をして、五番ポジションで爪先立ち。

 その後ク・ドゥ・ピエから爪先を軸足の膝まで引き上げ、その脚を横に高く振り上げてターン。

 右手は上にあげ、左手は横に伸ばす。目線は右手の肘と手首の間を見る。

 

 再び“シャッセ”。

 

 それを繰り返しながら舞台を移動していく。


 ――足を放り投げる!

 

 一瞬静止して……決める!

 

 決まった!

 

 短期間とはいえ、レッスンに励んだ甲斐があった。

 

 もう一度!

 

 ―― 脚を放り投げる!

 

 爪先は伸ばして!


 エカルテは順調に繰り返され、最後の一回が無事に終わった。


 だが、私の体力は限界だった。

 

 苦しい。踊り始めて1分30秒。時間がこんなに長く感じられるなんて。


(あと少し!)

 

 残すはシェネターンとピケターン。


 打鍵はラストを目指して力強さを増していく。


 ターンのスピードは加速し、私は回り続ける。

 

 ラストまであと僅か。

 全力を尽くして!

 

 ―― そしてフィニッシュ。

 

 最後にアラベスクでポーズをすると、ピアノの音がやみ、踊りが終わった。


「……ありがとうございました……」


 呼吸を整えお辞儀ルヴェランス


 心臓がどきどきとし、息が苦しい。


 ……でも……


 流れる汗が心地よく、達成感が胸に込み上げる。


 自分にとって、最高の演技パフォーマンスだった。

 

 スタジオの片隅でデュカスと牧嶋が話し込んでいる。

 話が終わると、デュカスが私達のもとへと歩いてきた。

 

 ……そして……。

 

「……モナコで待っているよ……」


 真希の手を握りしめた。












 

 


 


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