第56話  特別レッスンへの誘い

 牧嶋のスタジオに到着したのは、電話を受けてから一時間後のことだった。


「……実はね、沙羅ちゃん……モナコのバレエ学校の先生が今週の日曜日にいらっしゃるの……」


「……え……と、モナコのバレエ学校の先生ですか……?」


「それで、このスタジオの上級クラスの生徒が四人レッスンを見てもらうことになっていてね……」


「……」


「……でね……一人体調不良で欠員が出たの……」


 牧嶋は何か大切な話をしようとしているのだ。

 私は黙したまま耳を傾ける。


「もし、先生に認められれば、モナコの学校へ一年間の留学が許可される……オーディションみたいなものね……」


「そうなんですね?」


 牧嶋は何の話をしているのか。

 自分と何のかかわりがあるというのか。


「……それでね……どう? 沙羅ちゃん……代わりにレッスンを受けてみない?」


「えっ!? 私がですか!?」


 夢のような提案に舞い上がるも、徐々に疑念が湧いて来る。

 自分で良いのかと……。


 私にはブランクがあり、未だ本格的なレッスンに取りかかってはいない。

 四人の中で恥をかくだけで終わるのではないだろうか。

 

「……」


「……沙羅ちゃん? 悪い話じゃない……それに留学できなかったとしても、レッスンを見てもらうだけでも大変なことよ……今後のアドバイスを受けることができる……親身に接してくださる方なの……」


「……で、でも……」


 迷う私を前に、牧嶋が用意しておいたDVDをセットする。


「学校と繋がりのあるバレエ団の公演を撮影したものよ……」


 体に馴染むほど耳にしたメロディー。

 だが、私はかつて見たことのない光景を目にする。

 白い布切れを貼り付けたような衣装が目新しい。

 切れが良く斬新な振り付け。

 だが、動きは白鳥そのものなのだ。


「白鳥の湖ですよね……?」


「そう……」


 心に刺さるような刺激的な舞台(パフォーマンス)に、釘付けになる私。


「モナコのバレエ学校ではね……新作にも力を入れている……クラシックだけではない……きっと沙羅ちゃんも気に入る……」


 繰り広げられるダンスは私を魅了し、遠慮や戸惑いを忘れさせた。


「あ、……あの……私、レッスンに参加します!」


「そう、よかった! 絶対沙羅ちゃんの為になる! あ、レッスン後にヴァリアシオンを踊ってもらうから何にするか決めておいてね……」


「はい! お声がけいただいてありがとうございました……頑張ります!」

 

 勢いよく礼を言ったものの、一人冷静になれば、考えずにはいられない。

 果たして、何を踊ればいいのだろうか。

 自分にはブランクがあり、高度な技術を要する作品は踊れないのだ。


(どうしよう……)


 ベッドの淵に腰を掛け、私は思案に耽(ふけ)るのだった。



 日曜日。

 特別レッスンの当日だ。


 私が到着したのはレッスン開始の一時間前だった。

 にもかかわらず、残り三名はすでに着替えてストレッチをしていた。

 焦りながら更衣室で水色のレオタードに着替えながら思いを巡らす。


(……今日のメンバーにあの子・・・はいるの?)


 と。


 更衣室を出て一番に目に入ったのは……。

 

 真希だ。


 留学を希望する彼女にとって、今日は千載一遇のチャンスと言えるだろう。


 思わず目が合う。


 ――バチン!


 真希の瞳から火花が散るようだ。


 真希以外の二人は、それぞれ左右のバーについていて、私は右側の後ろに並んだ。


 すると、真希が半ば強引に私の前に立ち、私は後ろへ下がることを余儀なくされた。


 バーは左右両側にあるというのに、片側のバーに三人が連なるという、妙な状態になってしまった。


(え……と……? 何?……)


 左側へ移ろうと思うも、真希を刺激しそうで思い留まる。


 やがて牧嶋が講師を連れて現れた。


「……みなさん……デュカス先生がお見えになりました……」


 牧嶋が紹介すると同時に、一斉に挨拶をする生徒達。


「あ、……有宮沙羅と申します……よろしくお願いします!」


 皆に倣って、私も自己紹介をする。


 繊細で優しそうな人。でも、青い瞳の奥に強い光が垣間見られる。


 今日はピアニストの美和が来ている。

 恐る恐るバーを握ると、美和が音楽を奏で始めた。


 スタジオの空気がいつもと違う。

 強張った牧嶋の表情に、ゆったりと落ち着いてはいるけど、鋭いまなざしを向けるデュカス。


 緊張感あふれる空気に、私も飲み込まれそうだ。


 ――レッスンはいつも一番プリエから始まる。


 両足の踵をつけ、爪先を外側へと開いて立つ。

 膝は伸ばして。


 そして“プリエ”。

 背筋を伸ばして、膝を爪先と同じ方向へ向けたまま曲げる。

 一番から、二番、四番、五番の順に、ドゥミ・プリエとグラン・プリエを繰りかえす。


 “ロン・ドゥ・ジャンプ・パール・テール“

 第一ポジションを通過しながら、爪先で半円を描くように動かす。

 軸足はしっかりと止め、動かす方の足は自由に。


「そう……いいね……、沙羅。足の裏を丁寧に使って、……爪先でゴミを拾うつもりで……」


 デュカスが指示を出す。

 

 “足を出すときは、足の裏で床の埃を残らず拭き取るイメージで!”

 

 子ども時代を思い出し、状況を忘れて笑顔になる。


(……あら?)


 不思議だ……。

 緊張が緩まり、リラックスできた。

 それに、デュカスのアドバイスはイメージしやすい。


 首のつけ方、足首の角度、呼吸の仕方……。

 指示通りに直すと、動きがぐっと良くなるのがわかる。


 気持ちが落ち着くと、真希の姿が視界に入った。

 目の前の真希は以前とは違っていた。

 動きに丁寧さと滑らかさが加わっている。


 真希は成長した。

 素晴らしい素養を持つ彼女が、真剣にレッスンに取り組めば、どれ程の力を発揮するのだろうか。


 ぷるっと……


 体が震えるのは武者震いだ。


 ……そう思いたい。

 


 バーを離れ、定位置のまま緩やかに体を動かす“アダージョ”のレッスン。

 レッスン場を横切りながら回るターンにジャンプの練習。

 ワルツを踊って、最後にクールダウン。


 ……そして……。

 

 レッスンの最後には、それぞれがヴァリアシオンを踊るのだ。

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