第55話  真相

 あの日以来、結翔は戻っていない。


「……よかった……何もかもが元通りになったのね……」


 母が喜んでいる。やはりいろいろな事情を知っていたのだ。

 私も嬉しい。結翔はきっと家族と上手くやっていくだろうし、紬も気持ちが楽になるはず。結婚は結翔の祝福があったほうが絶対にいい。


 ……でも……。

 あの空中庭園に彼が立つことはないのだ。

 父親の仕事の勉強をするならば、angeのバイトも辞めるだろう。

 嬉しいはずなのに素直に喜べないなんて、心が狭いのだろうか。

 でも、これで全てがいい方向に進むのだと、自分に言い聞かせた。




 数日後、私の家に来客があった。


「紬ちゃん!」


「……こんにちは、沙羅さん……」


「いらっしゃい……来てくれて嬉しい……」

 

 紬を一階客間へ案内する間、彼女は家中を見渡していた。

 廊下を壁を天井を……。

 結翔の足跡をたどるように。


「……ここに結翔さんがいたんですね……」


 紬はここに来ることを願い続け、ようやくそれが叶ったのだ。

 その気持ちを思うと、鼻の奥がツンと痛くなる。


「そのソファーに座っていて……お茶を持ってくるから……」


 客間に戻ると、私は紅茶とお菓子の乗ったトレイをテーブルに置いた。


「ありがとう」


 紬は、お茶を一口飲むと話し始めた。


「沙羅さん、ありがとうございました……結翔さんは家に戻ることになりました……結翔さんはいろいろ話してくれました……私にも“ごめん”って謝ってくれました。結翔さんの気持ちを考えると胸がいっぱいで……。おじ様も、“そんなに悩んでいたのに気づかなくてすまない”って仰いました。それから“長い間寂しい思いをさせたね”って……。おじ様と結翔さんがあんな風に穏やかに話し合う姿を初めて見ました……」


(よかった……)


 家族に結翔の気持ちが通じたことを知り、私はほっと胸をなでおろす。


「……おじ様と母との結婚も祝福してくれました……」


 全てがいい方向へ向かってくれた。


「あ……あの……」


「どうしたの?」


 私が顔を覗き込むと、紬が苺のような唇をきゅっと噛みしめた。


 問題がまだ残っているのだろうかと、一瞬不安が胸をよぎる。


「……実は、私の実父のことがわかったんです……母が話してくれました……」


 声を震わせる紬。


「お父さまのこと?」


「……はい。実父は、私が生まれる前に亡くなっていました……。母が学生時代から付き合っていた人で、結婚の約束もしていたんです……」


(……そんな……もう亡くなっていたなんて……)

 

 せっかく父親のことが分かったのに、会うことは出来ない。

 紬の失望はどれほどのものだろうか。


「……母が実父の名を明かさなかったのは、父の実家の事情でした……」


「お父様の実家?」


「はい。父は会社を経営していましたが、先が短いことを知り、叔父を後継者に指名しました。でも、叔父は親族と折り合いが悪く、私の存在が叔父の立場を危うくすることを恐れた父が、母に自分の子供であることを伏せるように言ったそうです……」


 この現代に、そんなドラマみたいな家督争いがあるなんて、にわかには信じ難いことだった。


「……でも、叔父の地位は盤石なものとなり、その心配もなくなりました。祖父母も私のことを知っていて……すぐにでも会いたいと……」


 言いかけて、紬の声が涙でくぐもり、頬にきらりと光るものが伝わり落ちた。


「紬ちゃん……」


 自分の出生について、紬は誰にも相談できずにいたのだ。

 結翔も、紬の母親も、本当のことを話すことができず、それが彼女を苦しめていた。

 真実が明らかになった今、彼女が無責任な中傷に心痛めることはもうないのだ。


 でも……。


 ―― 紬の苦労は無駄だったの?


 ううん。

 違う。

 きっと、話すべき時と、そうではない時があって、紬はそれを待たされていただけ。きっと無理に真相を暴いても、良い結果にはならなかったのだ。


 ――そう信じたい。


「……私に会いたいと言ってくれる人がいるなんて……思いもしませんでした……」


 紬の頬に涙が零れ落ち、私は彼女の隣に座り、そっと肩を抱いた。


「紬ちゃん……」


 涙が零れるたびに、紬の肩が小さく揺れ、肩を抱く私の目にも涙が溢れる。


「……紬ちゃん……」


「沙羅さん……」


 紬の涙が私の頬を伝い、私の涙が紬の頬を濡らす。

 私達は、いつの間にか抱き合ったまま泣いていた


「沙羅さんありがとうございました……」


 ひとしきり泣いた後、紬は涙を拭きながら言った。


「本当に沙羅さんのおかげです……結翔さんは沙羅さんのおかげで戻ってくれました……」


「私は何もしていない……できなかったの……」


「そんなことありません……私も沙羅さんといると、ほっとするんです。お昼休みに沙羅さんと話ができてよかった……気にかけていただいて感謝しているんです……」


「……そんな」


 突然の誉め言葉にもじもじとしていると、紬はさらに驚くことを言った。


「結翔さんをよろしくお願いします」 


 “よろしく”って何? 結翔ともっと仲良くなれってこと?


 でも、結翔には……。

 紬は、私の戸惑いに気づかないようで、話を続けた。


「結翔さんは明るい人ですけど、本当は寂しがり屋なんです……私と結翔さんは、もうすぐ家族になりますけど、今までも、ずっと本当の兄のように思っていました……だから、沙羅さんのように優しくてしっかりした女性がそばにいてくれると思うと嬉しいんです……」


「そ、そんな……結翔さんには婚約者が……」


 麗奈の顔が浮かび、苦い思いが胸に込み上げる。


「え? 誰? 誰がそんなことを言ったんですか?」


 きょとんとする紬に、私は拍子抜けしてしまった。

 義兄の婚約者を知らないのだろうか?


「……松坂さん……松坂さんから聞いたの……」


 私の言葉に紬が少し考えた後、


「あ〜。そう言えば聞いたことがあります。お父さま同志の仲がよくて、お酒の席で、なんていうか……冗談というか……そんな話をしたことがあると……」


 遠い昔を懐かしむような紬の目。


「えっ? 冗談? お酒の席?」


 衝撃の真相だ。


「あ……の……沙羅さん?」


 紬が遠慮がちに、


「……信じたんですか?……麗奈さんの話?」


 と言った。


 そうだった。

 独善的で思い込みが激しく、しかも“うっかり”。

 一番信じてはいけない人の言葉を、私は鵜呑みにしたのだ。

 頬がカーッと熱くなり、それは耳まで伝わっていった。


「……なにか誤解があったみたいですけど、解けてよかった……」


 そう言うと、紬はにっこりと笑った。



 その日から、私は、トゥシューズを履いて本格的に練習を始めた。

 生徒達が帰った後、誰もいない牧嶋のスタジオで私は踊る。

 

 ―― “どうしたら役に近づけるのか?”

 

 考えたからと言って、すぐに答えが見つかるわけではない。

 でも……。

 結翔は前に進んだのだ。自分も彼に倣いたい。

 私に今できることは、練習に励み、ブランクを埋めることなのだ。

 

 何事もなかったかのように、毎日が過ぎていった。

 だが、転機はすぐそばまで来ていて、それは一本の電話から始まった。


「沙羅ちゃん! 今すぐ来られるかしら?」


 電話は牧嶋からのものだった。

 挨拶もそこそこに、用件を切り出してきたことに驚かされる。


「どうしたんですか?」


 牧嶋が取り乱すなど、ただ事ではない。

 彼にはいろいろと世話になったのだから、今度は自分が力になりたかった。


「わかりました! 直ぐにそちらへ伺います!」


 二つ返事で答え、私は早々に家を飛び出した。



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