第54話  帰省

 結翔の告白を聞いた時から日々は変りなく過ぎていった。

 紬はいつも通り静かに過ごし、私はスペイン語の勉強に追われた。

 

 結翔は……。


 分からない。

 あれから会うことがなくなったから。

 おそらく結翔も同じだと思う。学校へ行き、バイトに向かう。

 このままではいけないと思いながら……。


 そんなある日のことだった。


「……これ、沙羅ちゃんの?」


 母が白いイヤホンを出し、私は首を横に振る。


「じゃあ、結翔さんのね。ガゼボに落ちていたの……」


 きっと、結翔から家族の話を聞いた日に落としたのだ。

 気が付かなかった。


「これを結翔さんに届けてくれるかしら?」


「わかった!」


 母からイヤホンを受け取り、angeへと向かう。

 これで結翔に会える。あれ以来、話らしい話をしていなかった。

 開店前の今なら話ができるはずだ。


 でも……。


 店のドアを開けた瞬間、異様な空気に包まれ立ちすくむ。

 結翔とオーナーが難しい顔をして向き合っていた。


「沙羅ちゃん……」


 私に気づいた結翔が振り返り、再びオーナーに顔を向け直す。


「お金は弁償します」


 結翔の言葉に、オーナーが苦い顔で頷いた。


 やはり様子がおかしい。


「……結翔さん?」


「今日はもう帰る……仕事にならないんだ……仕入れの金をごっそり盗まれたんだ……」


「そ、そんな! ……何があったんですか?」


 結翔が私に説明をする。


 夕べ結翔が店番をしていた時、電話がかかってきた。

 その場にいたお客に店番を頼みangeを出た。

 でも、その客も、急用ができて店を空けてしまった。

 そして店内に誰もいない間に、売上金が盗まれてしまった。

 二階に住むオーナーも、その日は親戚の家に行き留守にしていたという。


「酷い!……そのお客さんに留守番を頼んだんですよね? その人に責任はないんですか!?」


「オーナーが店を任せたのは俺なんだ。お客さんに責任はないよ」


 でも、そんな偶然が重なるなんておかしい。泥棒はオーナーが家を留守にする日を狙っていたのだろう。きっと、店の内情に詳しい人物なのだ。


「……いくら盗まれたんですか?」


 恐る恐る尋ねると、結翔が手で金額を示し、それはスペイン旅行の費用と同額だった。


「警察に調べてもらいましょう!」


「だめだ!」


 突如、結翔が声を荒げた。


「ど、……どうしたんですか?」


 私が驚き、それを見た結翔が声をひそめる。


「……ごめん……警察に届けたくないんだ……」


 おかしい。彼は何かを隠している。


「結翔さん? どんな電話だったんですか? 店を空けるほどの事だったんですか?」


「……紬……紬が補導されたって……」


(そんな!) 


 きっと電話をかけてきたのは、紬が補導されかけたことを知っている人間だ。

 

 でも……それって……。あの日お店にいたのって。


「やはり警察に……」


 と、言いかけると、


「だめだ。これ以上紬に辛い思いはさせられない……」

 

「もしかして……留守番を頼んだのって……平野さん?」


 結翔が黙り込む。


(やっぱり!) 

 

 にたにたと笑う顔が思い浮かび、背筋がすーっと寒くなった。


「俺の過失で盗まれたのだから、金は弁償する……貴重な資金だった……angeの経営も決して楽ではない……」


 結翔は平野に店を任せた自分の迂闊さが許せないのだ。

 いつもの結翔なら絶対にそんなことはしない。

 紬を案ずるあまり、我を忘れてしまったのだ。


 結翔は紬の名前を使って呼び出され、平野に店番を頼み、平野が店を空けた隙に金を盗まれた。

 そんなの不自然すぎる!

 犯行はあまりにも稚拙で、警察が調べれば、犯人はすぐに判明するはずだ。


 だが、そうすれば、どうしても紬の名前が出て、本人の知るところとなる。

 結翔は紬を守りたいのだ。


 結翔の気持ちは理解できる。

 でも……。


「……金が無ければスペインには行けないな……」


 結翔が笑みを浮かべる。

 こんな悲しそうな笑顔は見たことがなく、胸が締め付けられるようだ。


「……巡礼で罪を許されようなんて、ムシが良すぎるよね? そんなのこじつけでしかない……自分のやったことは消えないんだよ……」


 結翔が静かに言う。


 それじゃ、あまりにも悲しすぎる。

 結翔は悪くない。

 神様はそんな結翔を罰するつもりなのか。


 こんなこと言っていいのだろうか?

 私は結翔と知り合ったばかりなのに。 

 でも、今の結翔には言葉が必要なのだ。

 誰かが言わなくてはならない。

 私は意を決した。

 

「結翔さん……結翔さんのしたことをお母様がどう思っているかは分からない。でも、今の結翔さんを見たら、きっと喜んでくれます! 義妹思いの優しい結翔さんのことを褒めてくれる!」


 そう。過ぎたことは取り返しがつかない。

 でも、


「……だから、これからもお母様が喜ぶことをしてあげて。安心させてあげて!」


 結翔が私を見た。


「……家に戻って、お父さまと新しいお母さまの結婚を祝福してあげてください! 結翔さんが結婚に反対していないことを知ればどれほど皆が喜ぶか……紬ちゃんが結翔さんに嫌われていないことを知ったら、どれほど安心するか……みんな待っているの! あなたの一言を待っている!……お願い……結翔さん……」


 言ってしまった。


 長い。

 長い沈黙のあと、


「……今からでも遅くないかな?」


 俯いたまま結翔が言う。


「ええ!」


「今からでもやり直せるかな?」


「もちろんです!……やり直すのに遅すぎるなんてありません……いつだって、誰だってやり直せます……だから……だから……お願い……家に……」


 震える声を抑え、私は結翔に訴えかける。

 いつしか夕暮れは終わり、宵の明星が瞬いていた。

 結翔は薄明の空を見上げ、しばらくじっと何かを考えこんでいるようだった。

 そして、スマホをポケットから取り出すと、電話をかけ、応答を待っていた。

 無言の時間は長く感じられたが、一分にもならなかったと思う。


 やがて沈黙が破られる。



「……ああ、……父さん? 俺、明日帰るから……」



 電話は、たったの一言で終わった。


 その翌晩のことだった。

 けぶるような霧雨が窓外の視界を曇らせる中、私は目を凝らして門を見つめていた。

 やがてヘッドライトの明かりが暗闇に浮かび上がり、黒い車が門の前で止まった。


 結翔が【左側】の玄関を出て門へと向かっていく。

 私は階段を駆け下りると、結翔の元へと走って行った。


「結翔さん!」


「沙羅ちゃん!?」


「一緒に!……結翔さんの家まで一緒に行きます!」


「ありがとう……」


 安心したような笑顔を結翔が見せる。


 私と結翔が乗り込むと、車は都心へ向かって緩やかに進んだ。


 じゃっ。じゃっ。


 時を刻む時計のように、ワイパーの音が規則正しく響く。

 私たちは言葉もなく、じっと前を向いたままだった。

 時折、対向車線のライトが車内を照らし、結翔の青白い顔を照らす。

 結翔の手の甲に、そっと指を添えると握り返された。

 大きな手。今まで結翔の手がこんなに大きいなんて思わなかった。

 結翔の掌は温かく、心がほっと休まるのを感じた。

 私が力づけてあげたかったのに、逆に励まされてしまった。

 大丈夫! きっと上手くいく! 結翔の手がそう言っているようだった。


 やがて車は大きな邸宅の前で止まった。

 暗く広い庭の向こうに、ぼんやりと家の明かりが見える。


「じゃあ、俺はここで。……あ、……沙羅ちゃんを家まで送ってください……」


 結翔の言葉に運転手が頷いた。


「……ありがとう沙羅ちゃん……」


 結翔が門をくぐり、明かりの灯る家の方へと歩いて行った。


「結翔さん!」


 結翔は振り返ると、笑顔を見せた後、再び前を向いて歩いて行き、振り返ることはなかった。

 運転手は私を乗せて発進しようとしたが、


「待ってください。……もう少し……お願いします……」


 結翔を見送ってあげたい。せめて、姿が見えなくなるまで。

 こんな暗くて寂しい場所に、彼を一人で行かせたくなかった。

 でも、結翔は行かなくちゃいけない。そうしないと、前に進めないから。

 結翔の背中が小さくなり、やがて見えなくなった。

 

 私はそれを見守ると、


「ありがとうございました。家までお願いします……」


 運転手が頷き、私の家へと車を走らせた。



 その夜。

 私は窓から外を見つめ続けた。

 ……でも、結翔が戻ってくることはなかった。


 きっと、良い方へ向かったのだ。すべてが。

 私はそれを信じたかった。



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