第53話   旅に出る理由

 口を開いて、無言のまま口を動かしては、閉じる。

 結翔はそれを何度も繰り返した。


「……中に入りましょう……」

 

 家に入ることを促す。

 まずは、彼の気持ちを落ち着かせなくちゃいけない。

 私と結翔は、【右側】の玄関から客間を通り、空中庭園に出る。

 フットライトの明かりを頼りにガゼボにつくと、天井の明かりをつけた。


「ここで待っていてください……なにか飲み物を取ってきます……」


 結翔をベンチに待たせ、私はキッチンへ行き、棚からアッサムの茶缶を取り出した。

 温めたポットに茶葉と湧き立ての湯を入れ、砂時計をひっくり返す。

 砂時計の砂が落ちていく様を、見るともなく眺めながら、これからどんな話がされるのかを考えた。

 結翔は私に大切な話をしようとしている。

 きちんと聞いて受け止めなくてはならない。

 

(私にできるのかしら?)

  

 ――いいえ!


 心に浮かぶ不安を振り払う。

 受け止めなくてはならないのだ。

 

 砂時計の上半分の窪みが次第に大きくなり、やがて吸い込まれるように最後の砂が落ち切った。


 時間だ。


 空中庭園へ戻らなくては。

 淹れたての茶に、ミルクと少し多めの砂糖を入れた。

 カップを乗せたトレイを手に、客間から空中庭園へ繋がる階段を上る。

 ガゼボでは結翔が俯いたまま座っていた。

 

「……ミルクティーです……」


「……」


 カップを渡すも返事はない。


「……肌寒いですね……温まりますよ……」


 結翔がカップに口をつけ、ゆっくりと茶を飲み始める。

 長い沈黙。

 私はミルクティーの甘さが、結翔の心をほぐしてくれることを祈った。

 

 やがて結翔が口を開く。


「……母は俺が子供の頃から病弱で入退院を繰り返していたんだ……俺が高校二年生の秋、前触れもなく突然退院してきた……その時の母は顔色がよくて元気そうだった……だから俺は母の体調が回復したと思ったんだ……」


 言葉を探すかのように、カップの底を見つめる結翔。


「……母とは子供の頃からあまり会話がなかった……入退院を繰り返していたから……でも、あの時……今ならいろいろと話せると思ったんだ……それなのに、口を開けば、俺の勉強の話ばかり……その上、俺と話す時間よりも家庭教師達との面談時間の方が長かった……俺の勉強の進み具合や、家庭教師達の質のチェックに明け暮れていた。俺を任せられるかどうかってことだな。あとは、もっと父の仕事に興味を持つようにだとか……そんなことばかり………俺は、もっと身近な日常の話や、母自身の話が聞きたかったのに……」


 カップを持つ結翔の手が震える。


「……だから俺、言ったんだ。『せっかく帰ってきたのに何なんだよ! 母さんが家にいる意味ないじゃん!』ってね……」


 結翔に掛ける言葉が見つからない。


「……酷いよな……小学生以下の我儘だろ? その時、母がすごく悲しそうな顔をした。俺は自分が酷いことを言ったのがわかった。それなのに、そのまま母を残して部屋を出てしまった……それから母の容体が急変して……そのまま……」


 結翔の母親は、そのまま……。


「それが母と交わした最後の言葉だった………悲しそうな顔が今も忘れられない……その後、俺は具合が悪くなったんだ。朝起きると眩暈がして学校に行けなくなって、そのまま家に閉じこもるようになった……医者から環境を変えることを勧められて、沙羅ちゃんの家で暮らすようになった……でも、変わらなかった。俺は家から出ることができなくなってしまったんだ。母さんに最後に言った言葉が頭から離れなくて、“なんであの時……”って何度も思った。なんで謝らなかったのかって……」


 結翔は、わずかに残ったミルクティーを長い間見つめていた。


「……食事は実家から届けられ、家庭教師とオンラインで勉強をした……俺が母のためにできることはそれくらいだったから……母は俺が父の会社を継ぐに相応しい人間になって欲しかったんだ……」


 分かってしまった。

 旅に出る理由。


「……毎日、カーテンを閉めたまま、明かりも点けずに暗闇の中で暮らした……で、去年の大晦日にサンティアゴ巡礼のことを知ったんだ。『すべての罪が許される聖年』のこともね……」


 結翔は許されたかったのだ。


「それから何度も巡礼の動画を見た……一面に広がる小麦畑……バルで食事をする人々、相部屋のアルベルゲで寛ぐ巡礼者、ミサに与る人達……誰もが幸せそうに見えた……あそこに行けば、俺もあんな風になれるかもしれない……そう思えたんだ……」


 それでお金を一生懸命貯めていたのだ。

 でも……悲しすぎる。

 結翔の母親は気の毒だと思うが、結翔は悪くない。

 それなのにこんなに苦しんでいるなんて。


「……それに……怖かったんだ。俺のしたことが人に知られることが………今でも怖い……父はどう思うだろうか……なんて言うだろうかってね。サイテイだろ? 俺のこと軽蔑してもいいんだよ? 沙羅ちゃん……」


「軽蔑だなんて! そんなこと!!」


 そんなことするわけがない。

 結翔の父親も、紬も。

 皆結翔が帰ってきて、幸せになることを願っているはずだ。

 でも、今の結翔は後悔と悲しみの気持ちが強すぎて、温かい心が伝わらない。

 深い海の底に光が届かないように。


 私は結翔のことを知りたくて、新しい結翔を知るたびに、驚きと喜びが心に芽生えていった。

 明るくて優しい結翔。しっかり者の結翔。そんな結翔が好きだった。

 もっと知りたいと思っていた。

 それなのに、私が一番知りたかったことは、結翔が一番知られたくないことだったのだ。


 ――旅に出る理由。


 何よりも知りたいことを知って嬉しいはずなのに胸が痛い。

 結翔の悲しむ姿が、自分のことのように辛い。

 ……でも……この、心に湧きあがる温かい気持ちは何なのだろう。

 私は涙を堪えた。

 一番辛いのは結翔なのだから。


 『結翔さんは悪くない。過ぎたことは変えられない。それよりも本当のことを話して、お父さまの再婚を祝ってあげて。紬ちゃんの負担を軽くしてあげて』


 胸から言葉があふれ出るのに、口にすることができない。

 私は、テーブルを挟んで結翔の前にいるだけ。

 私に出来ることはそれだけだった。



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