第52話  真実の重さ

 一週間の終わる金曜日。

 私は、定時退社した父と待ち合わせ、葉山に住む祖母の誕生日プレゼントを買いに出かけた。

 買い物の後、私の服を見て食事をしたら、思いがけず夜遅い時間になってしまった。

 最寄り駅にたどり着いた頃には、時計は十一時をとうに過ぎていた。

 商店街の入り口に立ち、私は小道につながる通りを見る。

 この先にangeがあるのだ。


 その時、前方に見覚えのあるシルエットが視界に入った。

 小柄なおさげの少女が立っている。

 一人じゃない。

 誰かと一緒だ。


 ――紬ちゃん!?


 紬の側にいたのは警官だった。


「パパ! ついてきて! 友達がいるの!」


 紬はこんな時間に、何をしているのか。

 しかも、警官が近くにいる。

 何が起こっているのかも分からないまま、とにかく紬のところに行かなくてはと、全速力で走った。


「す、すみません!」


 息を切らして、大声を出すと、


「君は誰だ! こんな時間に一人で出歩いて!」


 厳しい口調に足がすくむ。


「……あ、……有宮沙羅で……す」


 声が震える。

 名前を言うのが精いっぱいで、事情を説明することなんてできない。


(どうしよう!?)


 心臓がどきどきとして、息が苦しくなる。

 体が冷たくなり、握りしめた手にじんわりと汗がにじんだ。


「私はこの子の父親です……そちらのお嬢さんは娘の友達なのですが、何かありましたか?」


 ようやく追いついた父が警官に尋ねる。


(よかった!)


 私だけでは余計に事態が悪くなるところだった。


「この子は、こんな夜更けに一人で人通りの多いところを歩いていたんです。様子もおかしかったもので……」


 警官の言葉通り、紬は思いつめたような表情で唇を噛みしめ、小さな肩が小刻みに震えていた。


 この先にはangeがある。

 紬が結翔に会いに来たことを察し、私は紬に彼のバイト先を教えたことを後悔する。

 紬は、夜更けに一人結翔に会いに来るほど追い詰められていた。

 毎日一緒に食事をしていて、なぜそれに気づかなかったのだろう。


「あ……あの……この先のお店で、この人のお兄さんがバイトしているんです。……そ、その人は十八歳です!」


 警官は私と父と紬を交互に見た後、


「じゃあ、そのお兄さんの所へ連れて行ってください」


 と言った。


「……こ、困ります!」


 紬が慌てると、


「君! 今、そういう我儘が通る状況だと思っているの? それにお兄さんに会いに行くのに何か都合が悪いのかい?」


 と、訝るように警官が言う。

 まるで犯罪者扱いだ。


「紬ちゃん、お巡りさんの言うことを聞いた方がいい……」


 父が紬を諭し、私達四人はangeへと向かう。


「いらっしゃいませ!」


 結翔の声が明るく響くも、それはすぐに叱責へと変わった。


「……紬!」


 驚いて声を荒げた後、父と警官に気づくと慌てて頭を下げた。


 警官が結翔に話しかける。


「このお嬢さんが、君に会いに来たって言っていてね。君はこの子のお兄さん?」


「は、……はい。妹がご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした……」


「君の名前は?」


「塔ノ森結翔です」


「苗字が違うね? 兄妹なのに」


「はい、正式にはまだですが、俺の父と彼女の母親がもうすぐ結婚するんです」


 すっと……。

 警官の目から感情が消え、入れ替わるように冷たい光が差し込む。

 結翔が信用できる人間か見極めようとしているのだ。


 長い沈黙。


(結翔さんは嘘なんて言っていません! 紬ちゃんもいい子です! 信じてください!)


 心で叫ぶも、口にすることはできない。

 誰もが黙したまま緊迫した状況に耐えている。

 

「……彼とはどういうご関係ですか?」


 警官が父に尋ねた。

 声は静かで、咎めるような口調が薄らいでいる。

 

「彼はうちの間借り人です」


「……なるほど……」


 結翔に対する警官の心証は良さそうで、このまま丸く収まってくれることを私は願った。


 その時だ。


「お取込み中みたいだね」


 店の奥から中年の男性が現れた。


「すみません……あ、サービスします……俺のポケットマネーです……」


 結翔は愛想よく笑顔を見せ、客に料理を一品持たせた。


「悪いね……」


 客がにたにたと笑顔を浮かべた。

 この顔には見覚えがあり、私は記憶の糸を手繰り寄せる。


(平野さん!?)


 常連客の平野だ。

 結翔の言葉に、彼が気分を害したことを思い出す。

 angeのオーナーも彼を警戒していた。

 

 思わず後ずさりしそうになるけど、この前みたいになると嫌なので踏みとどまる。

 少しでも面倒なことは避けたかった。

 

(大丈夫なのかしら? 今、この人がこの場にいて……)


 私の不安を他所に、平野は何事もなかったように店を出て行った。


 警官は紬と結翔にいくつか質問をすると、


「じゃあ、私はここで……」


 と、去っていった。


(よかった……)


 信用してもらえたようで、私はほっと胸をなでおろす。


 でも、 

 

「紬! こんな夜遅くにダメじゃないか! 有宮さんにまでご迷惑をおかけするなんて!」


 結翔が真剣に怒っている。

 こんな彼を見るのは初めてで、緩んだばかりの心が強張っていく。


「まぁまぁ、大事にならなくてよかったじゃないか。結翔君も落ち着いて……」


 父が間に入る。


「会いたかったんです……結翔さん、ここに来れば会えると……」


 目を伏せたままの紬。


「結翔さん、紬ちゃんを責めないで……」


 紬を庇う私。


 状況を呑み込めない結翔が、私と紬を交互に見る。

 そして、ようやく結論に到達したようだ。


「……もしかして……沙羅ちゃん……なの? 紬に俺がここでバイトしていることを教えたのは……」


 結翔の問いかけに、自分は頷くことしかできなかった。


「参ったな! 二人が同じ学年なのは知っていたけど、こんなに仲良くなっていたなんて……いつの間に!」


 「まぁまぁ」と、父が結翔をなだめ、紬に話しかける。


「紬ちゃんの家もこの近くだよね? 沙羅と一緒に送るよ。もう遅いから、結翔君も話は後にしなさい」


「……申し訳ございませんでした……」


 何度も頭を下げる結翔を残し、私達は店を後にした。

 紬を家に送り届けても、私と父が帰宅するには三十分とかからない。

 私は結翔よりも先に家に着いていた。


 紬の悲しそうな顔が頭から離れない。

 私は、自室の窓から、【左側】の玄関をマークする。

 他所の家のことで立ち入ったことはしたくない。

 でも、学校で紬が辛い思いをしていることを、結翔が知らないままでいいわけがない。

 結翔が何故家に帰らないのか。

 理由はどうでもいい。

 彼は現状を知る必要があり、知らなければ後で絶対に後悔をする。

 そう思った。


 深夜の一時を過ぎた頃、【左側】の玄関に人影が現れた。

 私は部屋出ると、階段を駆け下り玄関を飛び出した。


「結翔さん!」


 憂鬱そうに振り返る結翔は、初めて会った日と同じ虚ろな目をしていた。


 私は結翔のことを何も知らなかった。

 長患いの末に亡くなった母親がいたことも、寂しい少年時代を過ごしたことも……。

 でも、私にもできることがあるはずだ。


「……ごめん。明日にしてくれないか?」

 

 私を見ることさえなく、結翔は家に入ろうとする。


 明日?

 明日なら話ができるの? 

 ううん。今できない話は、きっとこれから先ずっとできない!

 

 紬には黙っているように言われたが、これ以上放ってはおけない。

 結翔はいつか本当のことを話してくれる。

 私はそれを信じていた。

 でも、このままではそんな日は来ない。

 苦しんでいるのは紬だけじゃない。結翔にも言えずに悩んでいることがあるはずだ。

 

 すっと息を吸い込むと、吐きだすのと同時に話し始める。


「……紬ちゃん……学校で辛い思いをしているの……」


「え?」


 自分になんの関係があるのかと、唖然とする結翔に、私は彼女の置かれている状況を説明する。


「……そんなことが……違うんだ。俺が家を出たのはそんなことが理由じゃないんだ……」


 結翔がショックを受けている。

 それを見る私も辛いけど、言わなくてはならない。


「結翔さんはお父さまの再婚に反対なんですか?」


「まさか! 秋絵さんは、紬のお母さんは、あんないい人はいないくらいだ! 再婚の話を聞いたときは、本当に嬉しかったよ!」


「じゃあ、それを紬ちゃんに言ってあげて! 誤解を抱えたままじゃ、紬ちゃんがかわいそう過ぎる。お父さまも、秋絵さんも! 早く結翔さんの気持ちを伝えてあげて!」


 

「……」


 結翔が俯いたまま黙っている。


 長い沈黙が続いた後、ようやく口を開いた。


「……俺、……怖いんだ……」


「え?」


(……怖いって?)


「……俺……母の思い出のあるあの家が怖いんだ……」


 結翔の肩が震えている。

 結翔が真実を話そうとしている。

 私がそれを聞いていいのだろうか。

 

 ――真実の重さ。

 

 その重さに足を捕らわれ、私はその場に立ちすくんでしまった。

 


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