第51話  屋上のプリンセス

 ――私は結翔が好きなのだ。

 

 自分の気持ちに気づいた日から、私は結翔と会う機会を少しずつ減らすことにした。

 婚約者のいる人と、これ以上親密になるのはよくないと思うから。

 結翔は平気なのだろうか。

 能天気なくらいに、気軽に声をかけてくる。


(どうして? 婚約者以外の女性と親しくするなんて、どういうつもり?)

 

 私は考えた末に、


「私のことを女性として見ていない!」


 と、いう結論に達した。


 私だけがこんなに悩むなんて、不公平だと思うし、馬鹿らしくさえある。

 でも、結翔の笑顔を見ると、つい許したくなる。


(だめ! 結翔さんには決まった人がいるんだから!)

 

 私は自分にきっちりと言い聞かせる。



 その頃から、屋上のランチタイムには紬が加わった。

 私と紬の話題は、他愛のないものから、互いの身の上話までと様々で、絵美がそれを聞くとも無しに聞いている。

 

 紬には話し相手が必要だったこと分かる。それなのに、誰にも相談できずにいたのだ。もっと早くにこうしてあげればよかったと思う


 紬は、結翔のサンティアゴ巡礼の計画の話やバイトの話を聞きたがり、私は結翔の子供時代の話を聞いた。

 

 婚約者のいる人のことが気になるのは、よくない気もするけれど、子供の頃の話を聞くぐらいならば、神様も許してくれるはずだ。


「紬ちゃん、おさげがほつれてるから、結い直してあげる……」


「……あ、本当に……ありがとうございます!」


 髪を止めたリボンを解くと、豊かな黒髪が流れるように広がった。

 枝毛など無縁な艶やめく輝き。

 ブラシを入れれば、何の引っかかりもなく、頭の天辺から髪の先までスーッと滑り落ちて行った。

 あまりにも綺麗な髪で、結うときには手が震えるほどだった。


 髪が結い終わると、可愛いおさげの少女が現れた。

 

 紬は手鏡で髪を見ると、


「……沙羅さんお上手ですね。人に結ってもらうなんて久しぶりです……」


 感激したように言った。


「私も自分で結うから」


「沙羅さんのおさげ姿は、見たことありませんけど?」


「バレエを子供の頃から習っていて、練習の時だけシニヨンにするの」


「やっぱり! 姿勢が良くて、すらっとしているから、何かやっていると思いました」


 紬がパチンと小さな掌を打ち合わせる。


「沙羅さんの髪を梳いていいですか?」


「……ありがとう……」


 紬はポーチからブラシを取り出すと、私の髪を梳き始めた。


「沙羅さんの髪はミルクティー色で綺麗ですね……ずっと触りたかったんです……」


 ブラッシングは毎日しているけど、人にやってもらうと気持ちがいい。


「わぁー! さらさら!」


 紬は大喜びだ。


「バレエを習っているんですよね? どんな踊りが得意なんですか?」


「得意な踊り?」


 少し考えてから、


「オーロラ姫かな? 全幕は無理だけど……」


 オーロラ姫を全幕踊るには、多大な体力と技術、表現力が求められる。

 一幕目から、“オーロラ姫の登場”、“ローズ・アダージョ”など、プリマの力量を発揮する踊りが続く。

 今の私では到底演じきれない。


(でも……いつか……)

 

 それは私の夢。そして、全てのバレエダンサーの夢。


「いつか踊れるようになるといいですね……」


「……ありがとう……」


 こんな会話をしていると、自分がバレエを辞めるつもりだったことを忘れそうになる。

 バレエの話は避けてきたけど、紬となら素直に話すことができた。


「私、『眠れる森の美女』観たことあります。オーロラ姫は、沙羅さんにぴったりです。沙羅さんの髪は陽に当たると金色になるし、目は明るい金茶で宝石みたい。え……と……琥珀とかシトリンとか……外国のお姫様みたいです……」


「そんな……私は紬ちゃんのような黒髪に憧れるなぁ……あ、……紬ちゃんは、色が白くて、黒髪で、唇が赤くて……あれ、……あれみたい……」


 と、言いかけた時、


「ああ、あれでしょ?」


 と、珍しく絵美が話に入ってきた。


「“あれ”って? 何? 絵美さん?」


 私と紬が揃って絵美に注目すると、


「梅干しのお結びでしょ?」


 と、絵美が言った。

 

 呆然とする紬と私の時間が止まり、そのまま固まってしまった。

 

(ち、違う! 絵美!)


 だが、既に私の頭の中には、白飯に黒い海苔が巻かれ、天辺にちょこんと梅干しが乗ったお結びがびっしりと詰まっていた。


 もう、他のことが考えられない。


 ぽかんとした紬を見る。


(ど、……どうしよう!)


 紬がお結びに見えてきて、笑いを堪えるのが辛くなってきた。


 ぷっ……くくくくく……。


(笑っちゃダメ! 紬ちゃんが気を悪くする……)


 でも、隣からも、


 ぷっ……くくくく……。


 かわいらしい笑い声が聞こえてくる。


「あはは! 可笑しい!」


 いつの間にか二人そろって大笑いをする。

 もう止まらない。

 絵美は興味なさそうに、パックの牛乳を飲んでいる。


「あー可笑しい! お腹が痛い!」


 笑い転げる二人を興味なさそうに眺める絵美。


「こんなに笑ったの久しぶりです!」


「ホント! すっきりする!」


 私もしばらく笑っていなかった気がする。笑うと気持ちが軽くなるのだ。


 紬は、小柄で指も手も小さくて可愛らしい。

 そう。紬は白雪姫のようだ。

 意地悪な継母ままははに虐められる。

 継母は……。

 誰かさんの顔が浮かんだけど、せっかくのお昼休み。

 ご飯を美味しく食べるには、これ以上考えないほうがよさそうだ。

 それにしても、どうして紬の母親は娘の父親の話をしないのだろうか。

 紬がこんなに悩んでいるのに。

 きっと何か事情があるのだ。

 いつかきっと本当のことが分かって、全てが丸く収まるのだ。

 

 ……きっと。


 空にはふわりと白い雲が流れていく。

 私と紬と絵美。

 平穏な毎日が過ぎていった。

 



 表面上は……。







 

 ※ローズ・アダージョ

 『眠れる森の美女』の中で最も有名な踊りの一つです。

 オーロラが片足で爪先立ちをしたままアチチュードをして腕を差し出し、四人の王子の手を順に取る場面では、非常に高い技術が要求されます。

 音楽が華やかに舞台を盛り上げる中、観客たちもまた、緊迫感を持って魅入

られていきます。

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