第50話  ビター&スイート2

 結翔を避けた理由。

 それは、自分にも分からない。

 なぜ急に会いたくなくなってしまったのか。

 会うことが怖くなってしまったのか。


「……俺、沙羅ちゃんの気に障ること何かした?」


 無言で首を振る私。


「俺のこと嫌いになった……?」


 もう一度首を振る。

 しょんぼりとした結翔は、捨てられた子犬のよう。


「そっか……よかった……俺、嫌われたらどうしようって思っちゃった……お弁当ね……確かに作ってもらえて助かっているけど、毎朝会えるのが楽しみだったんだ……これからも直接渡してくれるよね?」


 そして、結翔は天使の笑顔を見せる

 気取りも気負いもない100%天然の笑顔。

 ずるい。

 そんな笑顔を見せるなんて。

 

 ―― 私も笑顔になっちゃう。


「……そんなこと気にするなんて、結翔さんらしくありません……お弁当も……事情があって、手渡し出来なかっただけ……これからは前と同じようにします……」


「やった! やっと沙羅ちゃん笑ってくれた!」


 結翔の笑顔が眩しい。

 見るのが辛いくらいに。


「……アルベルゲを経営するとしたら、どんな風にするの?」


 私が尋ねる。


「まだ計画も立っていない夢のような話さ……覚えていてくれたのは嬉しいけど、恥ずかしいなぁ……そうだね、新しく建てるのもいいけど、古い建物を買い取って、改装するのもいい……きっと趣のある家があるはずだ。貴族の邸宅だったりしたら最高だな……スペインは国を挙げて観光事業に力を入れている。……“パラドール”という国営ホテルもあるくらいなんだ。参入は厳しいかもしれないけど、やる価値はあると思う……」


「……パラドール? 何ですか、それ?」


「うん。貴族の城や教会、修道院を改装した、高級リゾートホテルなんだ……優雅にリッチに滞在したい人向け……でも、俺が作りたいのは、そういうんじゃなくて、アルベルゲよりは少し高いけど、安全で気軽に泊まれる巡礼者のための宿泊施設なんだ……」


 私は躊躇った。

 躊躇いながらも、以前からずっと気になっていたことを尋ねる。


「……結翔さんのお家の仕事は何をしているの?」


 もっと聞きたいことはたくさんある。

 何故私の家にいるのか。何故家に帰らないのか。

 紬の母親と彼の父親の結婚のことをどう考えているのか。

 紬のことをどう思っているのか。


 でも、私が口にできるのはそれが精いっぱいだった。


「うーん……創業当初は住宅建材のメーカーだった。何でも作ってたよ……キッチンのシンクから、浴槽にトイレ……水回り関係からスタートしたんだ……で、事業が拡大して、他にもいろいろ……リフォームに建設業も……」


 私は結翔が改装したangeを思い出す。

 温かく品よく居心地良い空間。

 結翔は僅かな費用で店の印象を大きく変えたのだ。

 彼の夢が急に現実味を帯びたものに感じられた。


「……いずれは経営に回るかもしれないけど、それまではいろいろな仕事をして経験を積みたい……」


「……」


 初めて結翔の口から聞く実家の話。

 今はこんな生活をしていても、結翔はいずれ家に戻る。

 そして、その時彼の横に立つのは麗奈なのだ。


「……どうかした……? 沙羅ちゃん?」


「ううん……素敵なお話だと思って……夢が叶うといいですね……」


 沈む心を励まし笑顔を作る。


「ありがとう! この話が出来るのは沙羅ちゃんだけだよ……なんせ一年近く引きこもってただろ?……こんな話をすれば“夢みたいな事言うな!”って叱られそうで誰にも出来ずにいたんだ……」


「……そんな……結翔さんなら絶対に実現できます!」


「ありがとう!」


 結翔が笑う。

 いつもキラキラとした笑顔。

 だが、瞳には遠い未来を見据える強い力があった。

 結翔が急に大人びて見え、自分から遠く離れて行ってしまったような気がした。


 そこへ母が戻ってきた。


「はい。結翔さん……これがお土産用……しっかりラップしておいたわ……少しずつ召し上がれ……」


「ありがとうございます!」


 あまりにも結翔の返事が勢いよく、母は驚いたが、


「よかった、喜んでもらえて!」


 と、笑った。



 日が暮れるころ、結翔は居間の扉から【左側】へ帰っていった。

 私は一人自室に戻ると、今日の出来事を思い返した。

 

 結翔は家に戻るべきだ。

 このままではいけない。


 でも、その前に真実を知りたい。

 本当のことを結翔の口から聞きたいのだ。


(……やだ……私ったら、他所の家のことなのに……)


 何故、自分はこれほどまでに結翔が気になるのか。

 

 心に問いかけると、甘いケーキを苦い珈琲で流し込んだような、楽しさと重苦しさが込み上げてきた。

 

 なんだろう。

 この気持ち。

 

 もしかしたら。

 もしかしたら。


 経験のない感情に戸惑う。

 結翔はいい人で、優しくて、親切で、そんな彼が私は好きだった。

 でも……この“好き”は特別な好きなのかもしれない。


 私は結翔が好きなだろうか。

 恋をしているのだろうか。

 だから、婚約者がいることを知って悩むのだろうか。


(……私、婚約者がいる人に恋してしまったの……?)


 そうなのだ。


 私は結翔が好きなのだ。恋をしているのだ。

 婚約者のいる結翔が好きなのだ。

 

 カーテンを僅かにずらし、【左側】を垣間見る。

 オレンジ色の灯りが心にそっと心に忍び込む。

 苦い思いは薄れ、代わりに温かな気持ちが胸を満たしていった。

 初めて結翔にあった日、私は常夜灯を見ながら彼の無事を祈ったのだ。

 

(……あの時と同じ……)


 仄かな灯りのもと、私は心に願うのだった。


 ――結翔が幸せになれますように。


 と。

 



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