第49話  ビター&スイート1

「私は結翔さんの婚約者なのよ!」


 麗奈が誇らしげに放った言葉が、耳の中でリフレインする。

 

 『婚約者』

 

 言葉の意味を呑み込めずにいたけど、しばらくすると不思議なくらいに、すとんと心に落ちてきた。


 結翔は会社経営者の一人息子なのだから、そういう人がいることが何の不思議もないのだと。


 ぷるるんプリンをちゅるちゅる食べる姿。


 優しくスペイン語を教えてくれ、バレエスタジオを紹介してくれたこと。


 『頑張れよ!』って男の子を励ます頼もしさ。


 ―― 私の踊りを見つめる眼差し。


 あの時、心が繋がったような気がしたのに……。


 でも、勘違いだったのだ。


 ―― 何だろう? この心にぽっかりと穴があいたような気持ち。


「……いってきます」


 いつものように家を出る。

 いつものように授業を受けて、お昼休みは屋上でご飯を食べる。


 絵美は何も言わない。

 沈黙がこんなに優しいなんて、今まで感じたこともなかった。

 ゆっくりと、ゆっくりと……時間が過ぎていった。



 スペイン語のレッスンのある日曜日。

 結翔はいつも通り空中庭園に現れた。

 私は自室のカーテンの隙間から彼の姿を垣間見た。


 結翔は私を待ち続ける。

 なんの疑いもなく。

 その時間はいつまでも続くようだった。


 いつも通りに空中庭園へ行き、レッスンを受け、話がしたかった。

 でも、それは出来なかった。

 してはいけない事のような気がしたから。 

 

 やがて曇り空から雨がぱらぱらと落ちてきて、結翔は【左側】へ戻っていった。


  

 ――ピコン!


 スマホにメッセージが届き、心臓がドキリと音を立てる。


 ―― 沙羅ちゃんこんにちは! 何かあった?


(……レッスンを無断で休んだから怒っているんだ……)


 ―― ううん。


(どうしよう……もっと、ましな返事をすればよかった……)


 ―― よかったぁ! 体の具合が悪いのかと思ったよ。


 結翔は少しも怒っていなかった。

 それどころか私を案じていたのだ。


 ―― ごめんなさい。家の用事で……。


 もう少しまともな言い訳ができないのだろうか。

 自分が嫌になる。

 

 ――それは大変だったね。大丈夫?


 変わらず優しい結翔。

 それなのに私は……。


 ――これからお弁当は、朝、ドアノブに掛けておく。それを持って行ってね……。


 メッセージが途絶えた。

 結翔は不審に思うだろうか。

 しばらくして返信があった。


 ―― わかった……。俺の方は大丈夫だけど、沙羅ちゃん、何かあったら話を聞くから。

 じゃあ、また!


 メッセージが終わり、私はそっとスマホを握りしめた。




 それから数日後のことだった


「沙羅ちゃん。ケーキを焼いたから、客間でお茶にしましょう……」


 母はケーキを焼くのが好き。


「はぁ〜い」


 返事をし、階下の客間へと向かう。


 ……と……


 結翔がいる。

 バツが悪そうにこちらを見ている。私が避けていることが知られてしまったのだ。


「上手く焼けたから、結翔さんをお呼びしたの……」


 母がケーキをテーブルへ置いた瞬間、


「わ! 綺麗!」


 二人揃って声が出る。


 テーブルに置かれたのは、オレンジ色に焼きあがったホールケーキだった。


「……ふふっ、……結翔さんがスペインが好きだって聞いたから、ガトー・バスクを焼いてみたの。……スペインとフランスの境にあるバスク地方のお菓子なのよ……」


 バスク地方は巡礼の出発点、サン=ジャン=ピエ=ド=ポーのある地域だ。


 母がケーキにナイフを入れると、“サクッ”と音がして、私と結翔は固唾を呑んでそれを見守った。


「……はい、どうぞ……」


 皿に切り分けられたケーキが、二人の前に並べられる。


「……綺麗なオレンジ色ですね……」


 今日、初めて結翔が口を開いた。


「そう、艶出しに塗ったドリュールの色なの……ドリュールってね、ケーキの仕上げに塗るものなの。卵と牛乳で作ってあるの……」


「へぇ!」

 

 興味津々に皿を覗き込む結翔。


「召し上がれ……」


「はい!」


 また声が揃った。

 シンクロするように、瞬時に顔を見合わせる。


 ケーキを口に含んだ瞬間、


「おいしい!」


 再びシンクロ。

 気まずい空気が、一瞬和む。

 美味しいものの力は偉大だ。


「……表面はサクサクしていて……」


 と、結翔。


「中はとろり……カスタードクリーム………?」


 と、私。


「そうよ、沙羅ちゃん……中はカスタードクリームなの。クリームの間にジャムを入れてもいいけど、今日はカスタードだけにしたわ……生地がサクサクに焼けてよかった!」


 ケーキ作りが成功して母は嬉しそうだ。


「飲み物はね、濃いめの珈琲にしたわ……ケーキが甘くて濃厚だから合うわよ……」


 ケーキを食べて珈琲を飲むと、ケーキの甘さと珈琲のほろ苦さが手を取りあってワルツを踊る。


「合う! 合う! 合う! これは癖になる!」


 甘さと苦さがマッチして無限ループに陥りそう。


「結翔さん、おかわりは? ……沙羅ちゃんはね、あまり食べられないから。……ほら、太っちゃいけないでしょ? 残りはお土産に持って帰るといいわ……」


「はい!」


 結翔が返事をし、私は無言のまま俯いた。


「じゃあ、お土産用にするから待っていてね……」


 ケーキ皿を手に母は席を立ち、私と結翔が客間に残された。


 ……き、気まずい。

 露骨に結翔を避けていたから。


「……ねぇ、沙羅ちゃん……」


 結翔に声を掛けられ、私は飛び上がった。

 ううん。飛び上がりそうだった。


「……なんですか?」


 努めて平静に返事をする。

 大人だから、話しかけられたら無視はできない。結翔には何の落ち度もないのだから。


「俺、沙羅ちゃんに何かした? 俺を避けてただろ? 空中庭園にも来なかったし……」


 結翔が心配そうに私を見つめた。


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