第43話 バレエレッスン1
日曜日の午後。
いつもの通り、結翔からスペイン語のレッスンを受けた。
そして、その後はお喋りが始まる。
「結翔さん。旅費の方はどうなの?」
お金の話は失礼かもしれないけど、やはり気になる。
「このまま順調に行けば、夏休みには間に合うよ……そろそろ飛行機のチケットを取らないと……」
「楽しみね!」
「うん! まずパリに宿泊して、パリ北駅からモンパルナスに出て、そこからTER(地域圏高速鉄道)に乗って、バイヨンヌを通ってサン=ジャ=ピエ=ド=ポーに行くんだ……モンパルナスからだと五時間くらいかな?」
「そこからピレネー山脈を越えるのね?……大変じゃない?」
「そうだね。体力も気力も必要だ……でも、歩いた人にしか見られない景色ってあると思う……」
結翔が通る道(ルート)は『フランス人の道』と呼ばれる。
サン=ジャ=ピエ=ド=ポーの街から歩き始めて、緑豊かなピレネー山脈を越えてスペインに入る方法だ。
「ホテルも使うけど、なるべくアルベルゲに泊まりたい……相部屋になるけど、巡礼気分を目一杯味わいたい……友だちも出来るかもしれないし……巡礼は、それぞれのペースで歩くから、別れた旅人と、どこかの街でバッタリ会うこともある……面白そうじゃない? それで、最後にサンティアゴ=デ=コンポステーラで再会できたら最高だなって!」
「素敵ね!……それに美味しいものもあるんでしょ?」
「そうそう! 巡礼メヌーってのがあるんだ。……メヌーって、定食のことで、前菜、メイン、デザートがセットになっていて、安いんだ。巡礼者向けのホスピタリティーってとこかな?」
結翔が目をきらきらさせている。
こういう結翔を見ていると、私もワクワクしてくる。
でも、三年生の夏休みに巡礼に行くなんて、卒業後の進路をどう考えているのだろうか?
余計なお世話かもしれないが、無関心ではいられない。
「結翔さんは高校を卒業したら、大学に進学するの?」
「うん。そのつもり……それと、これでもスペインやスペイン語についてかなり勉強したから、それを無駄にしたくない。将来に活かしたいと思ってる……」
「例えば?」
「そうだなぁ……スペイン国内の宿泊施設の経営とか、旅行業とか……。巡礼宿(アルベルゲ)を建てるのもいい……海外で仕事をするのに、その国の歴史や文化を学んだことは、きっと役に立つと思う……」
「実現するといいですね!」
「ありがとう! 沙羅ちゃんに言われると、実現しそうな気がするよ……まだこの話は沙羅ちゃんにしかしていないんだ……全然目途が立っていないから……これからスペインの経済や産業のことも調べないと……」
私は結翔が旅費の捻出のために、バイトに明け暮れているものだとばかり思っていた。
それなのに、いつの間にか次の夢を築いていたのだ。
未来を見据える姿を頼もしく思う反面、私は取り残されたような寂しさを感じた。
――自分はと言えば。
未だ、楡咲バレエ学校に足を向けることが出来ずにいる。
ブランクを埋めるための準備が整わない為だ。
土曜日になると、私は牧嶋バレエスタジオに向かう。
私の通う初心者クラスは、月謝制でも、チケット制でもレッスンを受けられる。
年齢はまちまちで、中学生から四十代、あるいはそれ以上の人もいる。
皆、きちんと基礎を身に付けようと努力していた。
何歳になったって、始めるのに遅いことなんてない。
真剣にレッスンする姿を見ると、身に染みて思わされる。
……でも……。
「みなさぁ〜ん。沙羅ちゃんの踵を見てちょうだい……ちゃんと前に出ているでしょ?……あれもこれも一度に覚えようとしなくていいんです……ひとつづつ出来ることから身に付けていきましょう」
牧嶋の声がスタジオに響くと、私に視線が集中する。
この状況は、かなり恥ずかしい。
視線の熱さは、バーを離れセンターレッスンになると、ますます高まる。
アダージョ。
回転やジャンプ、移動のない緩やかな踊りのことを指す。
爪先をク・ドゥ・ピエから膝の上まで引き上げ、ドゥ・ヴァン(前)に伸ばす。その脚を90度の高さを保ったまま、爪先で円を描くようにア・ラ・スゴンド(横)に回して、さらにデリエール(後ろ)に移動してアラベスク。
伸ばした足の方の腕をアン・ナ・ヴァン(前)に、もう片方の腕はア・ラ・スゴンドに伸ばす。
そのまま状態で体を前に傾けて、後ろ脚をさらに高く上げる。
これが“パンシェ”。
ジャンプの練習。
片足で床を蹴って、空中で伸ばしたもう片方の足をク・ドゥ・ピエにして片足で降りる“ジュテ”。
ジュテと同じように踏み切った後、空中で足を一本に揃えて、両足で着地する“アッサンブレ”。
「ほら、沙羅ちゃんを見て! 空中で足を揃えるときは、きちんと五番にして爪先を伸ばして…… 岩永さん、ドゥミ・ポアントを通って……ドスンと下りないの!」
岩永は、中肉中背の中年女性。確かに着地するときにドスンと音がする。
(……でも……き、厳しい……牧嶋さん! それに恥ずかしいし……。岩永さんにも悪いし……)
足を後ろに伸ばしたアラベスクの形で軸足を踏み切る“ソテ”。
膝に引き上げた爪先を前に放り出して、軸足で踏み切って跳躍する“グランパデシャ”。
そして、最後はレヴェランス。
体を正面に向けて、片足を後ろに引いて少し体をかがめる。
カーテンコールのプリマのように、最後まで気を抜かずに優雅に。
「ありがとうございました!」
声を揃えて挨拶をすると、牧嶋が笑顔で送り出してくれる。
レッスン後、生徒達の顔が充足感で輝き、まぶしいほどだ。
バレエを習っていて良かった。
心からそう思う。
ある日、いつものようにスタジオ入ると、見慣れない人影がある。
男の人が所在なげに立っていた。
私が、そろりと入っていくと、
「やぁ……」
結翔がバツが悪そうに手を振った。
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