第39話 if you listen to music2 ―饗宴ー
レッスン後、私と岩永は『甘味処・菊乃』へ立ち寄った。
「あ〜……今日は無駄に疲れたわぁ〜、なんか気を遣うのよね……」
「……あの……もしかして真希さんですか……?」
「そう!」
岩永にしては珍しく、きっぱりとした口調だった。
「あの子ねぇ……上級クラスなんだけど、練習熱心で、時々初心者クラスに顔を出すの……上級クラスは土曜日にレッスンがないから……チケットを利用して……」
「そうなんですね?」
「そう……別に上級クラスの人が来ても構わないけれど、初級者クラスのレッスンのレベルが低いって文句を言うのよ……」
「でも、牧嶋さんは、そんな我儘を聞き入れたりしなかったんですよね?」
「もちろん! だって、初心者クラスは週一回しかないんだもの……私達の貴重なレッスン時間でしょ?……でも、何か言いづらくてねぇ……」
腫れ物に触る。
初心者クラスでの真希は、そんな存在のようだ。
岩永の話によると、真希は十三歳の中学二年生。
大人びていたので、自分より年上だと思っていた。
「今日は美味しいものを食べて、ストレス発散しましょう!」
「はい、今日は楽しみにしていたんです!」
大ぶりな蓋付椀が二つ運ばれてきた。
「今日はね、甘味じゃなくてお食事っぽいものが頂きたかったの……」
岩永は嬉しそうだ。
二人で一斉に椀の蓋を開けると、湯気と一緒に出汁の香りが漂う。
「きしめん雑煮。美味しいわよ!」
「いただきまぁ〜す!」
まずは出汁を口に含む。
鰹と昆布、薄口しょうゆと……柚子の香りだろうか。
心も体もほっこりする。
三つ葉の緑が目に鮮やかで、散らされた手毬麩が可愛らしい。
「……お出汁が美味しい……きしめんも!」
「お餅もよ!」
私達は雑煮に夢中になっていたが、椀が空になる頃岩永が話し始めた。
「真希ちゃんはね、熱心というか、……過ぎると言うか……一生懸命過ぎて、周りが見えてないの……」
岩永の言うとおりだ。
周りが見えていれば、初対面の相手にいきなり高圧的な態度をとったり、周囲から腫れ物のように扱われたりしないだろう。
「確かにね。スタイルもいいし、踊りも上手い……だからって、初心者クラスで大きな顔をするのは違うと思うの……」
「……」
踊りが上手い……?
果たしてそうなのか。
上手と言いきるには、何かが心に引っかかるのだ。
「このまま真希ちゃんがいつかないといいわね……」
岩永の言葉が実現しないことを、私は密かに願った。
……ところがだ……。
真希は翌週もやって来た。
その日は、ピアニストの美和が来る日で、私は生の伴奏を楽しみにしていた。
それなのに……。
真希がいる。
不満を言うこともなく、黙々と練習をしている。
だが、その姿に妙な威圧感があった。
ぴりぴりとした緊張感がスタジオに漂い、皆が真希の様子を窺っている。
私も密かに、無事に今日が過ぎてくれることを願った。
そんな中、変わらぬものもある。
―― ドスン!
「岩永さん……音をたてないで……」
スタジオに響く、着地の音と牧嶋の声。
安定の通常運転に、なぜかほっとする。
レッスンの締めくくりは、ステップやジャンプ、
牧嶋が振り付けたものを、三、四人で組んで踊る。
私はレッスンの中で、グラン・ワルツを一番楽しみにしている。
単調な訓練から解放され、音楽に合わせて踊れるからだ。
自由にジャンプをし、回転をする。
(今日は思い切り発散したい気分!)
多少のもやもやなら、踊ることでスッキリできる。
……が……。
私は真希と二人きりで踊ることになった。
せめて、もう一人と思うが、誰も私達の組に入ろうとしない。
恐々と、遠巻きに様子見をしている。
……と、言うよりは……。
私と真希の踊り比べを見物するつもりなのだ。
皆が期待に目をきらきらさせ、今か今かと待ちかねている。
真希の口の端がほんの少し上がり、瞳には挑発的な色が差し込む。
真希はこの状況を、楽しんでいるようだった。
想定外の状況に、牧嶋に目で助けを求めるが、彼も困惑するばかり。
私達を止める理由が見つからないようだ。
その時だ。
「少々お待ちください」と、美和が鞄を探り始める。
何故今なのかと、生徒たちが注視する中、探し物を続ける美和。
「お待たせいたしました」と、楽譜を取り出し、譜面台に立て掛ける。
ピアノの前、姿勢を正し美和が座り直すと、椅子のきしむ音が低く鳴った。
一瞬、力を溜めこむように身構えた後、美和は最初の一音を叩き出す。
続く打鍵が刻む、軽快なリズム。
わくわくするような、それでいて優美な旋律。
―― ショパンの『華麗なる大円舞曲』。
曲名通り、華やかで壮麗な舞踏曲だ。
バレエ用の練習曲は、やや単調に力強く編曲されている。
(踊るしかない……)
音楽に鼓舞され、私は床を蹴り、斜め向こうへと踏み出す。
後ろに足を伸ばして、軸足で真上に飛ぶ“ソテ”。
その後、左右に重心を移動させる“バランセ”でワルツを踊る。
逃げ出したい。
でも、ここで引いてはいけない気がする。
理由はわからないが、真希には負けたくなかった。
――進行方向へ足を大きく振り上げ、軸足で踏み切る!
体が宙に浮いた瞬間、「わっ!」と歓声が上がった。
“グランジュテ”。
高い跳躍は見るものに重力を忘れさせ、夢の国へと
私はその瞬間が好き。
ふわりと浮かぶようにジャンプ。
前後の足を張って伸ばす。空中でも美しいポーズを保たなくてはならない。
表情は柔らかく、優しく。
妖精が風に乗って舞い上がるように。
――ストン……。
と、私の前方に真希が着地する。
ジャンプの高さは同じだが、飛距離は真希の方が長い。
やはり真希は、並々ならぬ体力と運動神経の持ち主だった。
……なのに……?
……ぎく……しゃく……。
胸に忍び寄る違和感。
ジャンプの後は、軸足の膝にもう片方の爪先を付けて回る“ピルエット”。
四番ポジションでプリエをして、腕をアン・ナ・ヴァン(前)から、ア・ラ・スゴンド(横)に開きながら回る。
私よりもやや早く、真希が楽々と
(わ、私も……三回転!!)
煽られるも、思いとどまる。
(駄目……もっと自分に集中しないと!)
私はまだ、本調子ではないのだ。
高度なテクニックを披露するよりも、基礎通りに踊らなくてはならない。
プリエをした後、踵を上げ真っすぐ上に立つ。膝は耳の方向へ開く。
手は体の前で籠を抱くように。肩は上げない。指先にまで神経を使って。
そしてターン!
腕の動きが回転を助け、体の軸が一本になる。
体に纏う空気を巻き込み、そのまま上に舞い上がるようだ。
膝は横を向き、腕のポジションも正確。
綺麗に回れた自信があった。
(ふみゅー!)
歌いだしたい気分になる
たとえ一回転でも、納得のできるピルエットができれば気分がいい。
最後は鎖のように小さくターンを続ける“シェネ”で、スタジオの端まで移動してポーズをすれば終わりだ。
……が……突如真希が踊りを中断してしまった。
(……えっ!? 何事?)
私は訝りながらも、最後まで踊り切る。
皆が緊張した面持ちで自分達を見守っていた。
一方、スタジオの隅で立つ真希が、
「あ〜あ! ここってなあなあよねぇ!」
と、低い声で言い放った。
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