第35話  【シルヴィア第三幕よりピチカート】1   ー白いチュチュの少女ー

 土曜日の午後。

 いつものように支度をすると、『牧嶋バレエスタジオ』へと向かう。

 まだ私が本調子ではなく、バレエ学校へ行く前に調整する必要がありそうだと牧嶋から勧められたからだ。


 バレエを知らない人でも一度は耳にするだろう、名言がある。

 

 一日練習を休むと自分に分かります。

 二日休むと先生に分かります。

 三日休むとお客様に分かります。


 四か月も休んだ私の怠惰は、どれ程の人に知れ渡るというのだろうか?

 考えただけでも気が遠くなりそうだ。

 楡咲バレエ学校は、私が通っていた教室よりも、はるかにレベルが高い。

 牧嶋の判断は妥当だと思う。


 その日、レッスンが終わると牧嶋に声をかけられた。

 スタジオの隅に小さな机がある。ちょっとした事務作業に使うものだ。 

 牧嶋はそこにパソコンを置くと、動画の再生を始めた。


 ロシア出身の、世界的に有名なプリマバレリーナの十歳の時の映像が流れる。

 小柄で華奢な少女が、簡素な白いロマンチック・チュチュを着ている。

 腕には白い飾り、小さな頭には白いシュシュ、足にはトゥシューズ。

 ポーズをとり音楽を待つあどけない顔には緊張の色が見られた。


 舞台は……レッスン場のようだ。時折、教師のような人影が映り込み、子供たちの声が聞こえる。

 彼らは少女のクラスメイトだろう。


 ピアノの伴奏が始まる。

 この曲には聞き覚えがあった。


「……これは……?」


「そう。『シルヴィア』のヴァリアシオン、“ピチカート”よ」


 シルヴィアはギリシャ神話を題材にしたバレエで、作曲はドリーブ。

 ピチカートとは、ヴァイオリンのような弦楽器をはじくことにより音色を出す演奏技法だ。

 曲名通り、二拍子の軽快な音楽が奏でられる。

 『シルヴィア』の“ピチカート”は、二人で手を繋いで踊る振付が有名で、発表会などでも頻繁に踊られる。


 ――そして少女が踊り始める。


「イントロの四小節が省略されていますね」


「ええ……イントロは四拍子で、普通はここで二人が手を取るの……」


 そして二拍子のリズムに合わせて踊るのだ。


「これはソロなんですね?」


「そう……振り付けは基本的なステップを組み合わせたものよ」


 片足を後ろに上げてアラベスク。

 軸足の踵を上げて爪先立ちでポーズ。

 それを音楽に合わせて繰り返す。

 

 爪先立ちした軸足の膝に、もう片方の爪先を付けるルティレ。

 爪先は伸び、膝は耳の方向に開かれている。


 五番ポジションで爪先立つ“シュス”。

 そのまま踵を床に着けて五番ポジションで立つ。


 爪先を伸ばし、足をクロスしたまま真上に飛び、前後の足を空中で変え、五番ポジションで着地。これが“アントルシャ”


 それを繰り返すが、この間、場所の移動はない。


 基本的なステップだけなのに、目が離せない。


「……すごい……腕の動きポールドブラも規則通り……」


 まるで生きる教則本のよう。


「でしょ……?」


 牧嶋が頷く。


 少女はその後ステップを踏みながら移動し、静止ポーズする。


 そして、再び初めの音楽が繰り返され、今度は回転を入れた移動のある動きが加わる。


「本当はここでゆったりした曲調に変わるのだけど、この振付では初めの数小節が繰り返されるの」


「……」


 単調な伴奏の繰り返しさえ心地よい。


 少女の背後にメモを取る者がいる。やはり教師のようだ。

 これは試験なのだろうか?


 少女が踊り終わると、わっと子供たちの歓声が湧き起こる。

 一分弱の短い舞台に、歓喜の声を上げているのだ。


 “ヴラヴォ〜!”の嵐を耳に、私は感動に震えた。


 踊り終わった少女は、ほっとしたような、誇らしげな笑顔でお辞儀ルベランスの後、舞台を去るが、子供たちはそれを許さずアンコールを繰り返す。


 ―― そして幼い少女はレッスン場中央に舞い戻り、可憐にルベランス。


 あまりの素晴らしさに呆然とする私に、牧嶋が声をかけた。


「……ねぇ。沙羅ちゃん。これ踊ってみない?」


「え!? ぇぇぇ?」


「おさらい会でよ……」


 “おさらい会”?


 岩永の言葉を思い出す。

 初心者クラスの生徒の為に、発表会の代わりに用意されたものだ。


「バレエシューズでいい。振り付けももう少し簡単にする……ルティレから足を伸ばす振りは、ク・ドゥ・ピエからに直すから……」


 ク・ドゥ・ピエは。軸足の足首に、もう片方の爪先を伸ばした足を付けるポーズだ。

 膝に付けるルティレから足を伸ばすよりは難易度は下がるだろう。

 バレエシューズなら尚更だ。


「……でも……」


 突然の申し出に、迷わずにはいられない。

 これは基本的なステップだけを組み合わせている。

 だからこそ誤魔化しが効かないのだ。


「ね、踊ってみて! ……でもね、私の生徒は皆目が肥えているから、沙羅ちゃんの実力がきっとわかる……私はそういう指導をしてきたつもり……どう?」


 岩永の伸びた爪先、優雅なアンオーを思い浮かべる。

 あの基礎は、子供時代につちかわれたものだろう。

 だが、『牧嶋バレエスタジオ』で磨かれたものでもあるのだ。


 彼女たちの前で踊るなど、空恐ろしい気さえする。


 しかも、人前で踊るのは、レッスン以外では久しぶりのことだ。


(私にできるのかしら?)


 だが、試みる価値はあるのではないか?


「踊ります! やってみます!」


「そう、よかった!」

 

 牧嶋のスケジュールを確認し、明日、日曜の午前中に振付を受ける約束を取り付けた。


「頑張って!」


「はい……よろしくお願いします!」


 心地よい緊張感が、背筋を走り抜ける。 

 

 私は、「おさらい会」へ向け、全力で努力する決意した。

 






 ※チュチュについて


 女性バレエダンサーの代表的な衣装です。

 チュールという薄い布地を重ねて作られています。


 クラシック・チュチュ:腰から広がる短めのチュチュです。

 固めのチュール使用し、さらに糊やワイヤーで張を持たせています。

 

 ロマンチック・チュチュ:柔らかいチュールで仕上げてあります。

 丈が長く、ふんわりとしているので、妖精などの神秘的な役の衣装に使われます。

 このお話で、沙羅が見た少女は、こちらの衣装を着ています。


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