第34話  妖精の女王と栗ぜんざい

 『牧嶋バレエスタジオ』に通い始めてから、一か月が経った。


 このスタジオの“初心者クラス”、元々は“大人のバレエクラス”という名前だった。

 成人した社会人や学生が対象だったが、いつしか中学生や高校生も受講するようになった。

 バレエに限らず、誰もが習い始めは皆初心者なのだ。

 だが、中学生や高校生ともなると、同じ年頃の経験者と習わせるのには無理がある。

 それで、受け入れの幅を広げる為に、“初心者クラス”と改名されたのだ。


 ここは、チケット制でも、月謝制でもOK。

 土曜日の午後二時から一時間半と決められているが、毎週通っても隔週でもよい。

 元々が成人の為のクラスなので皆が忙しい。

 そんな生徒達にこのクラスは重宝されていた。


 ―― だが


「岩永さん、ジャンプの着地はドスンと下りないように……ドゥミ・ポワントを通って」


 牧嶋は容赦がない。

 言い方は優しいが、基本をきちんと守らせようとする。


 岩永は三十代後半の色白の女性だ。

 近くに住む主婦で、中学生の女の子と小学生の男の子の母親だ。


 何かと指摘は受けるものの、ポジションは正確で、爪先も伸びている。

 動きもどこか優雅エレガントで、静止ポーズの時には夢見るような目線で遠くを見る。

 アンオー(上)にした腕は指先まで神経が行き渡り、言葉にできない趣(おもむき)がある。

 その姿は、まるで妖精の国の女王のようだ。

 

 レッスン後の更衣室、私は岩永に話しかけるを試みる。


「……あの、岩永さんって、子供の頃バレエを習ってらしたんじゃないですか?」


「あら、そんな風に見える?」


「えっと……なんとなく……あはは……」


「うふふっ……沙羅ちゃんにそう言われると嬉しい!」


 岩永の顔がぱっとほころんだ。


「だって、基礎が身について……なんていうか、……優雅です!」


「嬉しい! 実はそうなの。子供の頃習っていたの。……でも、高校受験で辞めてしまって……」


「そうだったんですか……」


「でもね……スタイル抜群というわけでもないし、回転もジャンプも……それほど得意じゃなかったの……ほら、着地のときよく注意されているでしょ?」


 岩永が小さく笑う。


「でも、わかります……えっと……その……」


 言葉を探し口ごもる。

 大人は頭で考えて練習をするから、子供よりも上達が早い。

 だが、子供の時代に身に着けたものには、深い味わいが伴うものだ。


「そうだ、沙羅ちゃん。……今日時間ある?」


「あ、……はい」


「じゃあ! ちょっと寄り道しましょう!」


「わっ、ぜひ!」


 というわけで、レッスン帰り、私と岩永は『甘味処・菊乃』に立ち寄った。


 私はフルーツ蜜豆を、岩永は栗ぜんざいを注文した。


「バレエを始めたのはダイエットも兼ねていたの……でも、せっかくカロリーを消費しても、これじゃね……」


 岩永が可愛らしく笑う。


「そ、そんな気にするほどじゃ……」


 私は言葉を曖昧に濁す。

 岩永は中肉中背で、太っているとは言えない。

 ゆったりとした動作が、そんな印象を与えるだけだ。

 だが、体形の話はこれ以上しない方がいいだろう。


 注文の品を、待ちかねたように口へと運べば、


「あぁ〜美味しい!」


 瞬時に零れる賛辞の二重奏。

 

「ふふっ……このお店はね……、時々立ち寄るの。気に入ってくれてよかった……」


「黒蜜が美味しいです! コクがあるのに、サラッとしていて……寒天も喉越しがよくて……」


「ぜんざいは、小豆の味がしっかりして、優しい甘さなの……今度試してね!」


「次に来たら、注文します!」


 私達はしばらくの間、甘味に夢中になっていたが、やがて岩永がバレエの話を始めた。


「十四歳でバレエを辞めてしまったけど、習っていた時は楽しかった……ヴァリアシオンも踊ったし……」


「何を踊ったんですか?」


「フロリナ姫……」


 鮮やかなブルーの衣装を纏った岩永が目に浮かぶ。

 『眠れる森の美女』に登場する童話の主人公の一人だ。

 フルートが小鳥のさえずりのような音楽を奏で、青い鳥と共に踊る愛らしいヴァリアシオンだ。


「岩永さんにぴったりです!」


「ありがとう。……でね、その頃の思い出が忘れられずに、スタジオに通うようになったの。牧嶋さんは、大人に対しても、子供と同じように誠実に接してくれる……」


 岩永の言うとおりだ。

 大人になってから基礎を身に着けることは難しい。

 初めから匙を投げてしまう教師も少なくないだろう。


「……牧嶋さんっていい人ですね……」


「やっぱり!? 沙羅ちゃんもそう思うわよね? あ、……そうだ! 沙羅ちゃんおさらい会はどうするの?」


「おさらい会?」


「……初心者クラスの生徒は、皆忙しいいから、他のクラスの人達みたいに発表会に出演しないの……」


「そうなんですね?」


「そう……だから、私達だけのおさらい会が、スタジオで催されるの……簡単な振り付けをしてもらって、アンサンブルかソロで生徒の前で踊るの。私達にとっては、それが発表会なの……。で、それを撮影して、後日、DVDを渡されるの……皆、とても楽しみにしてる!」


「素敵! ……でも、私は入会したばかりですし……」


「あら……沙羅ちゃんならいつでも出られるわ!」


 と言われても、自分にはそう言った話は来ていないし、自分からは言い辛い。

 しかも、他の生徒には内緒にしているけど、お金を貰ってアルバイトをしているのだ。


 ふと気が付くと、私のフルーツ蜜豆を岩永がちらちらと見ている。


「それも美味しそうね……」


「……え……ぇぇ……??」


 岩永は決して太ってはいない。


 ……が、


(……で、でも、もうすぐ夕飯だし……一度に食べ過ぎじゃない?)


 言い淀んだ私が口をぱくぱくとさせていると、


「あの〜、すみませ〜ん! フルーツ蜜豆を一つくださ〜い」


 岩永が奥にいる店主に声をかけた。 







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