第33話 たとえバーをはなれても
「……そんなことがあったのね……」
私が話を終えると牧嶋が頷いた。
「……酷い……そんなこと言うなんて! 何もわかってないんだ……」
結翔が怒りに震え、私は告白を後悔する。
こんな話、すべきではなかったのかもしれない。
「落ち着いて、結翔……沙羅ちゃんが驚いてる……」
「すみません……つい、かっとなって……」
牧嶋になだめられ、冷静さを取り戻す結翔。
「……ところで、……來未ちゃんって天野來未さん?」
「はい……ご存じだったんですね……」
「やっぱり!……コンクールで入賞して話題になったもの。テレビで見たけど、あの『スワニルダ』は素晴らしかった! 沙羅ちゃんのライバルって天野來未さんだったのね……」
「そ、そんな……。ライバルだなんて……私なんて……」
そういう時期もあったかもしれない、でも、今となっては手の届かない存在だ。
「何言ってるの!……沙羅ちゃんもいい踊り手のはずよ!」
と、牧嶋が言い、
「……俺もそう思う。詳しいことはわかんないけど、沙羅ちゃんは凄くいい!」
結翔が続く。
「……ありがとう……」
優しい言葉に涙腺が刺激されてしまった。
目頭を押さえ、顔を隠すように下を向く。
「確かに來未さんと比べられちゃうと辛いわね……。特に黒鳥は、派手なテクニックを披露する場面がたくさんあって、それが決まれば観客は喜ぶ……」
そう。特に32回転のグラン・フェッテ・アン・トゥールナンは、三幕最大の見せ場だ。
「でも、白鳥はもっと難しい……。どうだった? 踊ってみて……」
「……細やかな動きが続いて……それを自然に見せるのに苦労しました……あと、白鳥らしさを出すことが難しかったです……」
「そう、沙羅ちゃんは、おっとりとした品があって、お客様に苦労を見せない。……そういう踊りって、安心して見ていられる反面、地味に見えてしまうことがある……」
「でも、私は來未ちゃんのような黒鳥は踊れません……」
力強く、躍動感溢れる來未の踊り。あんな風には踊れない。
「そうかもしれない……誰だって、得手不得手があるから……でも、プロになるためには、それを克服しなきゃいけない。白鳥はどうやって踊ったの?」
「……それは……先生に言われたとおりにしました……手を羽のように動かして……水の上を滑るように歩きました……」
白鳥の動きには、すっきりとしない重さがある。
これは水鳥の動きであるとともに、運命に翻弄されるオデットの哀しみを表す。
繊細な足さばきで儚い境遇を、しなやかな腕の動きで、芯の強い女性を表現しなければならない。
「……踊りはそうね。心情は?」
「想像したんです。どんな気持ちだろうって……」
不安を抱きながらも王子を信じた喜び。裏切られた悲しみ。それを許した優しさ。どんな女性だろうって、考えながら踊ったのだ。
「想像しながら作っていったのよね?……沙羅ちゃんが苦手だと思う役でも、近づけていくことはできる……そうやって、沙羅ちゃんだけの踊りを作っていくの……」
私だけの踊り? 自分にできるのだろうか?
「……あのさ……」
結翔が躊躇いがちに口を開く。
「……俺、沙羅ちゃんの踊りが心に残るんだ。……じんわり来るものがある。情緒って言うのかな……?」
結翔の言葉に牧嶋が頷いた。
「沙羅ちゃんは、きっと良い踊り手になる……基礎がしっかり身についているから……例えば、ピケターンだけど……」
ク・ドゥ・ピエから爪先を、軸足の膝の高さまで引き上げながら回るターンだ。
「上げる方の足が、いつも耳の方向に開いている……爪先が足首から膝に移動するのは一瞬だけど、その形が決して崩れない……スピードがどれほど上がってもね。沙羅ちゃんは全てがそう……。まるでお手本みたいに……結翔、……結翔が見たのはオーロラ姫でしょ?」
牧嶋の言葉に結翔が頷く。
「あの踊りは派手なテクニックを必要としないから、コンクール初心者がよく踊るけど、シンプルな動きだけでオーロラ姫の気品と若々しさを表現しなくてはいけないから誤魔化しが効かない……きっと、将来沙羅ちゃんの当たり役になる……イメージがピッタリだもの……沙羅ちゃんは、『Sarah』だし……」
牧嶋がにっこり笑うと、
「Sarah?」
意味が分からないというように結翔。
「“お姫様”っていう意味よ。それに
「それは知ってる!……
結翔がくしゃりと笑い、強張った心が緩んでいく。
心和む天使の笑顔だ。
「確かに、來未さんの踊りは分かりやすいけど、なんていうのかしら、はっきりし過ぎていて、味がないというか……目に見えないところが人の心には残るものなの。……心で感じ取るの。結翔の言う“情緒”ってやつね……。沙羅ちゃんの踊りにはそれがある……もちろん來未さんの踊りは素晴らしい……。だからコンクールで入賞して、留学を勝ち取れた。でも、ハンデを克服するために、相当努力したはずよ……」
「……ハンデ? 來未ちゃんに?」
「そうよ“ハンデ”。この世界は素質がすべて……今も苦労しているはずよ……」
“素質がすべて”子供の頃から言われてきた言葉だ。
私達の戦いは踊る前から始まっている。身長、体重、柔軟性、筋力……あらゆる要素で品定めがされるのだ。
「……考えてみて……ロンドンへ行けば、沙羅ちゃんのような子に囲まれてしまうのよ……身長の低い來未さんにとって、決して居心地のいい環境ではない……それに、あの身長では、所属できるバレエ団は限られる……役柄も……」
そんな……。
來未はいつも元気いっぱいで、悩んでいる姿など想像もつかない。
でも、そんな來未も努力を重ね、自分だけの踊りを作り出したというのだろうか?
「それでも來未さんは自分の道を見つけなきゃいけない。……それができなければプロにはなれないから……」
來未がそんな厳しい状況に置かれていたとは、思いもしなかった。
「あとね……」
牧嶋が迷った後言った。
「沙羅ちゃんは、【残念】って言われて傷ついたのよね? それを言われ続けた來未さんの気持ちを考えたことある?」
「……い、いいえ……」
私は口元に指をあて、声の震えを抑える。
「まさか……來未ちゃんが……そんな……」
來未の気持ち。
考えたことさえなかった。
だって……來未は苦労を微塵にも見せなかったから。
私は、舞台では観客に苦しさを見せまいと努力した。
でも、それだけではだめなのだ。
舞台を離れても、レッスンをしていない時も、常にダンサーでい続けなければならない。
來未はそれを日常でも実践していた。
私はダンスや素質以前の問題で、來未に負けていたのだ。
情けなさ、悔しさ……。
胸を焦がす思いが、私自身に問いかける。
―― 今まで來未の何を見ていたの?
と。
私は羨むばかりで、彼女の苦悩を知ろうとしなかった。
「悔しい? 沙羅ちゃん」
「はい……」
「でも、いい
牧嶋が優しい笑顔で言う。
その時、外から五時を知らせるチャイムが聞こえてきた。
「あら、いけない! お
“どういたしまして”と結翔。
私も礼を言い、牧嶋と店を出た。
「沙羅ちゃん、頑張れ!」
振り返ると、笑顔の結翔が手を振っている。
「こんな時間なのにまだ明るいわね……」
牧嶋の言葉に空を眺めると、いつまでも夜が来ないような錯覚を覚え、薄明の空が終わることのない夢の始まりのように思えた。
もう一度振り返ると、結翔はまだ立っていて、私は心に焼き付けるようにその姿を見つめた。
※ク・ドゥ・ピエ
シュル・ル・ク・ドゥ・ピエの略です。
軸足の足首に、動かす方の足の爪先を伸ばして付けるポーズです。
このポジションは、ジャンプやポーズなどに移行する前に使われます
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