第31話  【白鳥の湖】 発表会当日2 ー黒鳥ー

 ―― すっと……。


 グラスが目の前に差し出される。

 透明な液体。

 私を見守る結翔。

 その時私は初めて、喉が渇いていることに気づいた。

 牧嶋は、じっと話に耳を傾けている。

 

 優しい……。

 二人とも。


 私は気力を振り絞り、再び話を始めた。

 



 ――三幕。


 王子の花嫁選びのための舞踏会が催される。

 招待客は近隣諸国の王侯貴族達。

 眩いほどの煌びやかさが、夜であることを忘れさせるほどだ。

 


 一幕の和やかな王城の庭園。

 二幕の幻想的な湖畔の風景。

 舞台は一転して、豪華絢爛な舞踏会と様変わりし、観客を圧倒する。

 『白鳥の湖』第三幕は最も華やかで見応えのある場面と言えるだろう。



 交わされる洗練された会話。

 賓客達は談笑に花を咲かせる。


 だが、今宵集う者の関心事はただ一つ。

 

 ―― 王子は誰を花嫁に選ぶのか?


 美姫と名高い花嫁候補達が、優雅に軽やかに踊りを披露する。

 選び抜かれた貴族の令嬢達だ。


 王妃はこの中から選ぶようにと王子に告げるが、王子にはすでに心に決めた女性ひとがいる。

 

 答えを出さない王子に困惑する王妃、嘆く姫君たち。

 

 突如ファンファーレが鳴り響き、新たな客が入城する。

 東方の貴族を名乗り、旅の途中立ち寄ったと、客人は言った。

 背の高い痩せた人物で、端正な顔には酷薄さが滲む。

 黒い羽根飾りの付いた服には、宝石が散りばめられ、好奇の視線が男を取り囲む。

 彼は王妃と王子の前に立ち、深く膝をかがめ礼をするが、大袈裟でわざとらしくさえあった。

 異様な振る舞いに訝りながらも、来訪を労う王妃に男が言い放つ。


 “私の娘をご覧あれ!”


 天鵞絨(ビロード)マントを翻せば、黒衣の女性が姿を現す。


 悪魔ロッドバルドオディールを連れ、舞踏会へ乗り込んできたのだ。



 ――空気が変わった。



 普段の來未は、あどけなさ残る平凡な少女だ。

 だが、舞台に立った瞬間、全ては変わる。

 明るさと強さ、天性の輝きが周囲を照らすのだ。


 控室では、皆がモニターを凝視する。

 神経を張り詰め、呼吸さえ忘れて、画面へと神経を注いだ。

 きっと客席の誰もが、私達と同じ気持ちだったと思う。


 黒鳥オディールは、妖艶な笑みを浮かべ、時に優しく、時に冷ややかな眼差しで王子を翻弄する。

 心惑わされた王子は、黒鳥を白鳥だと思い込んでしまう。

 

 そして、パ・ド・ドゥ。

 黒鳥と王子の踊りだ。


 王子役のダンサーが、軽々と來未を抱え上げた。

 パートナーの頭上で、來未はポーズを取り、黒鳥の笑みを浮かべる。

 美しく傲慢な微笑を……。


 來未の体重は軽く、男性舞踊手の負担は軽減される。

 それが高度なテクニックを、容易にこなすことを可能にした。

 パートナーの力を得て、來未の持ち味であるスピード感が存分に発揮されていく。


 小柄であることは、ダンサーにとって不利と言える。

 だが、來未はそれを逆手に取り、自らの武器としたのだ。


 感動のあまり、背筋が寒くなるほどだった。

 でも……それだけじゃない。

 理由のわからない不安が私の心を覆った。



 王子の心を捉えた黒鳥は、さらに大胆に振る舞い、32回転のグランフェッテが踊られる。

 勝利を確信した黒鳥の心を表現するテクニックで、華やかな第三幕の中でも最大の見せ場だ。

 

 スピード感溢れる音楽が観客たちの期待を煽り、舞台はクライマックスへと向かう。


 1回、2回。

 

 來未が片足を軸に、もう片方の足を振り上げながら大きく回転する。


 3回、4回。


 誰もが手に汗を握り、回転の数を数える。


 16、17……。


 中盤を過ぎ、曲調が変わるころ、回転にゆとりがなくなり、來未の表情に疲労の色がよぎる。 


 25.26……。


(神様! 來未ちゃんを成功させてあげて!)


 声も出さずに私は祈った。


 28……


 31……


 ―― 32!! 


 フィニッシュ! 


(やった! 成功した!)


 私は喜びに拳を握りしめる。


 苦しい呼吸いきを隠し、ポーズを決めた來未が笑う。

 勝ち誇る黒鳥の微笑みであり、困難を成し遂げた來未自身の笑顔だ。

 役とダンサーが一つになった瞬間を、観客たちは固唾を飲んで見守った。


 直後、場内に拍手が沸き起こり、歓喜の声が飛び交う。


 聞こえてくる。モニターの画面から。

 そして、背後の扉から。


 ―― 観客席の扉を突き抜け、地下にある控室まで届いたのだった。


 私は來未の成功を喜んだ。

 

 ……でも……。


(來未ちゃんの後に私が踊るなんて……)

 

 比べられてしまう。観客は私の踊りをどう思うだろうか?


 歓声を耳にしながら、私の心は不安に揺れた。 




 ―― 四幕。




 夜が白む中、白鳥たちが踊る。

 王女の帰りを待ちながら……。

 だが、戻った王女は王子の裏切りを告げる。

 嘆く王女。慰める白鳥たち。

 刻々と近づく永遠の別れ……。



 私は踊った。

 いつも通り。

 どれほど気持ちが動揺していようと、踊りは体に染みついているから。


 ……でも。來未の時と、客席の反応が明らかに違う。

 退屈しているのだろうか。自分の踊りはつまらないのだろうか。

 不安の中踊り続け、無事に舞台の幕が降りた。




 終幕後、私はロビーに出ることを恐れた。

 観客達が舞台の感想を語り合うからだ。

 でも、家族や友人に、挨拶をしなくてはならない。

 恐る恐るロビーに出ると、


 “いやー! すごかったね! あの黒鳥の子” 


 “うん! 小さいのに頑張ってて応援したくなっちゃう!”


 “いいねぇ。回転もジャンプも最高だったよ!” 


 耳に入る観客の声から、私は逃げるように家族のもとへ走っていった。


 ―― それなのに……。


 “あの白鳥は物足りなかったねぇ” 

 

 “うん。綺麗な子なのに残念ね”


 【残念】


 それは、今まで來未が言われてきた言葉だった。

 あんなに踊りが上手なのに。一生懸命なのに。

 『背が低いから』

 

 【残念】


 その言葉が私に言われるなんて!

 泣き出したいのを堪えて家族を探すと、


 “ああいう綺麗な子は、それに胡坐あぐらをかいて努力を怠るのかもしれないね” 


 “そうそう。ありがちだよね。才能の無駄遣い”


 心無い言葉が胸に突き刺さる。


 ひどい!

 レッスンの苦しさを思う。

 白鳥を踊るためにどれ程自分が努力をしたか。

 彼らに何がわかるというのか?


 でも……それがすべて無駄になってしまったのだ。


 ロビーの片隅にいた家族を見つけ走り寄ると、堪えきれずに涙をこぼしてしまった。


 晴れた秋の日、私の心に苦い思いを残し発表会は終わった。



 

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