第30話  【白鳥の湖】 発表会当日1 ー白鳥ー

 そして発表会当日がやってきた。

 会場は駅近くにあるホールだ。

 小規模ながらも、音響設備が充実しているために、バレエやオーケストラ等の公演にしばしば利用されている。

 複数の路線からアクセスでき、利便性も高い。

 城山晶子バレエ教室は、毎年ここで発表会を開催していた。 


 観客のほとんどは、出演者の家族や友人で、花束やプレゼントを手に来場する。


「やーん。緊張しちゃう」


 楽屋は大騒ぎで、誰かがリラックスできるおまじないを教えている。

 

 私の出番は二幕と四幕だから、一幕の間に身支度を始める。

 來未の顔がやや青ざめている。でも、悪い感じじゃない。気力が漲っているのが分かる。


 ―― リーンゴーン……。


 開幕五分前のベルが鳴り、場内アナウンスが流れる。

 いよいよ開幕だ。

 私は楽屋のモニターで舞台を見た。



 ―― 第一幕。


 舞台は湖を望む王城の庭園。和やかな空気の中、王子の成人を祝う舞踏会が催される。

 でも、王子は少しだけ憂鬱。母親の王妃から結婚相手を決めるように言い渡されたから。

 『貴方も成人したのだから』王妃が優しく王子を諭す。


 そして踊られる『パ・ド・トロワ』。

 王子の友人と女性二人が踊る有名な踊りだ。貴人たちの踊りが、祝宴の席に華やかな彩りを添える。

 

 宴は盛り上がり、王子は少し前の憂いを忘れてしまう。


 やがて誰かが声高に言う。


 『そうだ! 狩りへ行こう!』


 賓客たちは賛同し、弓を携え、馬に乗り、我先にと獲物のいる森へ向かう。


 『そうだ狩りへ行こう!』


 華々しく明るい音楽が響く中、幕が下ろされていく。



 ―― 一幕の終了。


 

「いよいよ出番よ!」


 白いクラシックチュチュを着て、頭には白鳥の白い羽根飾り、王女の印のティアラ。

 身支度を整え、鏡に姿を映せば否応なしに気持ちが高まる。


 休憩時間の間に、白鳥役の生徒たちが舞台袖に向かう。


(……みんな緊張している)


 私も……。

 深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。


 ―― リーンゴーン。

 

 開幕のベルが鳴り、場内の明かりが消えていく。



 ―― 第二幕。

 

 【情景】


 誰もが耳にしたことのある有名なメロディー。

 ハープの音色と共に、オーボエが奏でる哀しく儚い旋律が観客を物語へと誘い、やがて曲調は悲劇を予感させるドラマチックな展開を現していく。



 夕暮れの空はいつしか暗闇に染まり、白い月だけが辺りを煌々と照らす。

 王子は従者たちとはぐれてしまったことに気づいた。

 誰もいない夜の湖畔は静けさに包まれ、心に一抹の寂しさがよぎる。


 『貴方も成人したのだから』


 蘇る母の言葉。


 結婚するのが嫌なわけじゃない。だが、自分は恋をしたことがないのだ。

 もし、愛しい人が現れたのならば、迷うことなく愛を誓うだろう。


 耳をすませば水鳥の羽ばたく音がする。獲物がいるのだ。


 王子は弓を携え、草むらに身を潜める。



 そして……。



 ―― 私の出番だ!


 白鳥の登場。


 腕を羽のように動かしながら、細かく爪先立ちで歩き舞台へ。

 軸足でバランスをとり、もう片方の足を後ろへ伸ばしてアラベスク。

 そして……大きくジャンプ! 

 翼を広げた白鳥のように。


 ぱちぱちと拍手が起こり、私は安堵する。出は成功したのだ。


 そして……白鳥から人間の娘へ変わる神秘的な場面へ。

 月明かりが照らす中、静かに羽をたたむ白鳥。

 

 丁寧に、軽くなり過ぎないように。水を纏った白鳥の羽の重さを感じさせて

 足は静かに水をはらうように。


 そして、二人の出会い。


 突然の出来事に恐れながらも、王子に心を開いていく王女の心を、繊細な脚の動きで表現しなくてはならない。

 ステップは控えめに、バランスはやや危うげに。眼差しは慎ましやかに。

 全ては白鳥の儚さを表現するためのものだ。


 白鳥の群舞(コールド)が始まり、私は舞台袖へと退場する。 


 舞台袖では先生が待っていた。

 励ましの言葉をかけられながら、タオルと水を差し出される。

 私は礼を言い、自分の出番さえ忘れて舞台を見つめた。


 蒼暗い舞台に浮かび上がる白鳥の群れ。

 一糸乱れぬ群舞(コールド)は、最も美しいといわれる場面の一つだ。


 ―― そして、私は再び舞台に立つ。


 ハープの弦がかき鳴らされる。

 私は舞台を歩きながら王女(オデット)の心を思う。

 揺れる心を感じながら……。


 目の前の人を信じていいのか。

 彼は運命の男性(ひと)なのか……。

 彼女は迷い続けているのだ。


 舞台中央に出ると右足を前に、左膝を床に付いて立つ。

 腰を下ろし両腕を伸ばして体を伏せる。

 爪の先、脚の先まで神経を行き渡らせ、王女(オデット)の悲しみを表す。

 

 王子役のダンサーが手を取り、私を立ち上がらせた。

 

 ロマンティックなアダージョが始まる。

 二人の心の絆が結ばれる場面だ。

 ヴァイオリンの調べにのせ二人は踊る。


 湖面に漂う白鳥のように王子と共に舞台を歩く。

 流れるように繰り返される美しいポーズ。


 爪先は水を弾くように繊細に、腕の動きは優しく緩やかに。


 練習の成果が発揮されようとしている。

 体が思い通りに動き、自分でも驚くほどだった。

 音感も研ぎ澄まされ、音に沿うように踊ることが出来た。


 リフトの時には羽ばたくように。

 でも軽すぎてはいけない。


 私は仕草(マイム)で白鳥の心情を語る。

 自分は悪魔の呪いにより白鳥に変えられた。呪いを解く鍵は【真実の愛】のみ。

 ……と。


 舞台は順調に進み、優美な大きな白鳥の踊り、可憐な小さな四羽の白鳥の踊りが披露される。


 ―― 白鳥のヴァリアシオン。


 ルティレからア・ラ・スゴンドへ脚を高く上げ、手は羽根のように動かす。


 “空気に押し上げられるように!”

 

 先生の言葉を思い出す。

 不安も恐れも無く、私は踊りに没頭した。

 

 ジャンプも回転も一つの連続した動きのように滑らかに。

 

 舞台を横切るターンでは、抑え切れない心情が吐露(とろ)される。

 だが、王女の気高さは失われることはない。



 夜が明ける。

 

 王女は白鳥に戻り去っていく。

 残された王子は、白鳥の羽根を胸に王女への愛を誓う。

 


 ―― 二幕の終了。



 会場に拍手が響き渡り、幕が下りても鳴りやまなかった。


(……よかった……二幕は成功したんだ……)

 

 心がほっと緩んでいく。

 拍手を耳にしながら、私は舞台袖へと戻っていった。


「沙羅ちゃん、よく頑張ったわね! 練習の時よりずっといい……落ち着きがあって、優雅でした!」


 待ち受けていた先生が、私の手を強く握りしめた。


「……あ、……緊張しました……でも、……ちょうどいい感じで……その……自分でもよく踊れたと思います!」


 弾む息を抑え、切れ切れに言う。

 自惚れのように聞こえるかもしれないが、自分の正直な気持ちだった。


「よかった……すごく……でも、気を抜かないで、四幕もこの調子で……あとは、來未ちゃんの黒鳥が上手くいってくれれば……」


 先生が祈るように呟く。

 來未は実力のある子だ。

 私以上に本番に強く、失敗することはないだろう。

 それでも、先生は來未を案じている。

 舞台が終わるまでは、誰一人、気を抜いてはならないのだ。


「皆よく頑張った。でも、まだ四幕があります。舞台はまだ終わっていません! 控室で待機している間も、そのことを忘れないように!」

 

 先生の一言で、空気がピリリと引き締まり、緊迫感が押し寄せる。

 白鳥の群れは列を作り、控室へと向かっていった。






 ※ルティレ:片脚の膝を曲げて、爪先をもう一方の脚の膝あたりにつけたポジションです。

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