第29話  【白鳥の湖】ー発表会の練習2ー

「信じられなぁ〜い!! あんなんで主役よぉ〜」

  

 心無い言葉、けたたましい哄笑。 


 ……もしかして……。

 

 私がここにいるのを知って、話しているの?

 

 ―― 背筋が寒くなり、足が震えてきた。


(……どうしよう! 出ていけない。早く帰って休みたいのに……明日もあるに……)


 部屋を出ることもできず困っていると、


「すみませぇ〜ん!! そこ通れませぇ〜ん 狭い廊下で立ち話は迷惑でぇ〜す!!」


 來未の声が聞こえた。

 

 『あ、あら……』 と慌てる声と、ドタドタというもの凄い音。


 そして、


 『何よ、チビ!』


 と、悔し紛れの捨て台詞。


(ひどい! そんなこと言うなんて!)


 私が怒りに震えていると、


「大丈夫……?」


 振り返ると來未が戸口に立っていた。

 私を案じて、練習を抜けてきたのだ。


「なによ! あんなドタ足で白鳥踊ろうなんて、こっちこそ信じられない!」


 來未が彼女達の真似をし、ドタドタと足踏みをする。


「気にしちゃだめ!」


 と、來未。

 

 『ちび』

 

 悪意のこもった言葉が心を冷やしていく。

 主役が踊れず悔しいからって、あんなことを言うなんて。

 

 でも……当の來未は、そんなことには見向きもせず、私を気遣っている。


「大丈夫?……送ろうか?」


 漆黒の瞳が私を見つめる。


「……ううん。まだ、まだ練習は終わっていない……最後まで残って……私達主役だし……」


 そう。二人は主役なのだ。甘えは許されない。

 その日、私は早退し夜早く休んだ。明日のために……。




 個々のレッスンは進み、私と來未が王子役のダンサーと踊るパ・ド・ドゥの練習も始まった。


 グラン・パ・ド・ドゥというのは、男女のペアの踊りのことだが、決まった形式がある。


 アダージョ:男女二人で踊る

 ヴァリアシオン:男女がそれぞれソロで踊る。

 コーダ;再び二人で踊る。


 アダージョでは愛を確かめ合うように情感深く踊り、その後、それぞれのヴァリアシオンでは互いに競うように踊る。ラストのコーダでは気持ちの高まりを表現するかのように、リフトやグランフェッテなどの華やかなテクニックが披露される。

 

 來未がコーダで踊る32回転グラン・フェッテ・アン・トゥールナンはバレエの超絶技巧で、三幕で、そして、全幕を通して最も華やかで見ごたえのあるテクニックだ。

 

 軸足で立ちながら、もう一方の足を下ろさないまま振り上げてターンし、それを32回連続でする。

 

 來未が32回転を回りきると、 


「さっすがだねぇ、來未ちゃん!」


「バランスいいよね!」


 練習を見守る声に熱がこもる。


(私も負けられない! 頑張ろう!)


 ……意気込むも思いとどまる。


(……だめ……!)


 私は白鳥オデットなのだ。


 白鳥と黒鳥は正反対の性格なのだから、当然踊りも違う。

 來未と自分を比べてはならない。


 運命に翻弄される王女。

 白鳥に姿を変えられた哀しみ、嘆き。

 悲運に見舞われるも、失われることのない気高さ。


 白鳥の心を細やかな動きで表現しなくてはならない。

 指の先、爪の先まで神経を張り巡らせる。

 一瞬たりとも気を抜くことはできないのだ。


「今日は昨日の続きから……王子とオデットが出会った後、……オデットが悪魔を恐れるところから……」


 怯える王女オデットを安心させようとする王子。

 “ほら! 誰もいないですよ!”と。

 王子には悪魔の姿を見ることが出来ないのだ。

 不安に襲われたまま辺りを見回す王女に、そっと寄り添う王子。


 パートナーに背中を支えられ、私は上体を後ろへと反らす。

 体を元に戻すと、パートナーは私の背後へ回り、そっと包容の仕草をする。


「沙羅ちゃん、いいわよ! ……首だけ振り返って王子を見て……ゆっくりと優しく……指先まで気を配って!」


 アラベスクをしながら移動をする。

 進む先には王子役のダンサーが、私を受け止めようと待っている。


 一回。

 二回……。


 王子の胸に飛び込む白鳥オデット


 パートナーに支えられ、曲げた右膝を床に付け、左足を後ろへ伸ばし、上体を反らす。


 右足を軸にして爪先で立ち、天を仰ぐ姿勢でアチチュード。

 方向を変えてアラベスク。上体を前に倒してパンシェ。

 回転をして、再びアチチュード。

 

 白鳥を表現する、美しいポーズが絶え間なく続く。

 

 練習だというのに震えが止まらない。

 意識を失うほどの緊張の中、私はステップを踏んだ。


「沙羅ちゃん、凄くいい!」


「……」


 先生がこんな風に褒めてくれることは滅多にない。

 私の出来は悪くないのだろう。


 ……でも……。


 不安を拭い去ることはできない。


「……沙羅ちゃん……十分出来てる……」


「……私……これでいいのでしょうか?……」


「……沙羅ちゃん、緊張するのは分かる。白鳥は神経を使う踊りだもの……緊張感そのものが魅力になることもある……でもね……」


 先生がそっと私の肩に手を置いた。


「……でもね、もう少しリラックスして。でないと本番までもたない……」


 そうなのだ。

 不安がっていても仕方がない。

 私にできることはレッスンに励み、本番に備えることなのだ。


「はい!」


 気持ちを取り直した私に、笑顔の先生が頷いた。


 


 毎年、八月のお盆休みが明けた頃、教室でリハーサルが行われる。

 私は來未と一緒に他の人の出番を見学していた。


「……ねぇ、沙羅ちゃん」


「……」


 來未が話しかけるけど、私は返事をしなかった。

 他の人の練習を見ることも立派な練習なのだ。


「沙羅ちゃんって真面目なのね」


 と、來未が感心したように言った。


(真面目? ……違う……自信がないだけ……)


「……ねぇ、来年には話が出るかしら?」


「来年?」


 私は練習に目を向けたまま返事をする。


「……国際コンクール。来年から準備を始めて、出場するのは再来年の二月……」


「え!?」


 驚いた私は、視線を來未へと移す。


「声がかかるとすると、私と沙羅ちゃんだと思う。高校生組はドタ足だし……」


 來未が笑う。


 私が国際コンクールに? 考えもしなかったことだ。


 来年は三年生だけど、私の学校はエスカレーター式だから、学力のレベルを保てれば試験を受けなくても進学できる。 

 來未も同じような学校に通っていたはずだ。


 入賞をすれば留学が認められ、帰国後一年遅れて学校に戻れる。


「……來未ちゃんって、ずっと先のことまで考えているのね」


「うん! 沙羅ちゃんも考えておいた方がいいよ!」


 來未が屈託なく笑う。


 初めて『くるみ割り人形』を見たクリスマスの夜を思い出す。


 あの日以来、いつか自分も舞台に立ちたいと思っていた。

 でも、それは淡い夢のようなもので、実現するための方法を、具体的に考えることはなかった。


 來未の言葉に目覚めた私に、未来が語り掛ける。


 自分もいつか留学したい。

 そしてプロのダンサーになるのだ。


 と。


「じゃあ、次はパ・ド・トロワ! 亜美ちゃんと香澄ちゃんは前に出て!」


 呼ばれた二人は返事をし、男性ダンサーと位置に付いた。

  

 パ・ド・トロワは、王子の成人を祝い、男女三人で踊られる。

 

 優雅で心弾む旋律が流れる中、私の夢は現実の世界へと歩み出ようとしていた。






※アチチュード:片方の足を軸にして、もう片方の足を90度に曲げ、体の前、または後ろに持ち上げるポーズです。

 このお話では、後ろへ上げています。


※アラベスク:片足で立ち、他の片足を後に伸ばしたポーズです。


※パンシェ:アラベスクの状態で、足を上げながら、上体を前に倒す動きのことです。

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