第28話  【白鳥の湖】ー発表会の練習1ー

 『白鳥の湖』では、白鳥と黒鳥は同じ人が踊るもので、一人が二役を演じるところが面白さの一つでもある。

 だが、今回の発表会では、配役を私と來未に分けられた。


「二役を踊り分けるのは貴女達にはまだ無理だし、体力的に全幕を踊るのは厳しい……」


 優しく繊細な白鳥と、激しくスピード感のある黒鳥の両方を踊ることは、今の私達には難しいと、二人に役を割り振ったのは先生の配慮だった。


 白鳥の湖は、チャイコフスキー作曲の音楽を用いた有名なバレエだ。

 悪魔ロッドバルドの呪いで白鳥にされた王女オデットと王子ジークフリートの悲恋を描いた、クラッシックバレエの代表作の一つで、夜の湖を舞台とした幻想的な二幕に流れる旋律は、誰もが一度は耳にする有名な曲だ。

 また、王子の花嫁を選ぶ第三幕では、華やかな民族舞踊が舞台を彩る。


 配役が発表されると、すぐに練習が始まった。私と來未は、まずはヴァリアシオンの振付から。

 ヴァリアシオンというのはソロの踊りのこと。


「まずは、沙羅ちゃんの白鳥から。手の動きから始めるわよ。……羽に見えるように、肩甲骨から指先までが羽と思いながら動かして……」


 私は腕をア・ラ・スゴンド(横)にする。


「……まずは肘を下げて。それからゆっくり上げる。……肘から、手首……指先。そうそう……ア・ラ・スゴンドを通って滑らかに……空気に持ち上げられるように……そのまま挙げて、両手首が付くぎりぎりのところまで……」


 私は白鳥が翼を広げるように両手を頭の上に伸ばす。

 これだけの動きで、体中から汗が噴き出す。


「……羽だけどふわふわと軽い感じじゃない……水を纏ったような重さを感じさせて……白鳥は水鳥だから……」


 返事をするゆとりもない。


「……下すときもゆっくりと……目線にも気を配って、遠くを見るように優しく……」


 一度にいろんなことを言われて、頭が混乱する。

 でも、振りは早く覚えなくてはならない。

 私は主役なのだ。


「……ステップは、湖の上を滑らかに泳ぐように……ばしゃばしゃ水しぶきを上げるような動き方をしないで、優雅に……」


 プロのダンサーの舞台も、上級クラスの人達の踊りも見ていた。動画も。

 難しいのはわかっていたけど、想像をはるかに超えていた。

 白鳥の踊りは、細やかな動きが絶え間なく続く。

 自然に見せることが難しく、下手をすると、“ばしゃばしゃ”した印象を与えてしまう。

 白鳥らしく踊るには、まだまだ練習が必要なことを思い知らされた。

 

「はい! 今日はここまで……この調子でいけば、発表会までにはなんとかなりそうね。……でも、気を抜いちゃダメよ!」


「ありがとうございます!」


 精一杯元気に返事をするけど、もうくたくただ。

 ぺたりと床に腰を下ろして、タオルで汗を拭い呼吸を整える。


「……じゃあ、次。……來未ちゃん。黒鳥のヴァリアシオン……」


「はい!」

 

 來未は勢いよく返事をすると、レッスン場の中央へ出た。


(いけない! 來未ちゃんの練習も見ていないと!)


 王子を誘惑する悪魔ロッドバルドの娘、オディールが來未の役だ。

 黒鳥オディールも難しい。強い女性であると同時に、優雅な上品さも表現しなくてはならないのだ。

 そして目線。

 伏し目がちのオデットとは対照的に、王子、ロッドバルド、観客さえも、まっすぐな視線で見つめる。


 小柄な体を上手く使って踊ることで、來未が大きく見える。

 來未がこんなに上手だったなんて。

 

 ううん。

 

 上手なんて、簡単な言葉で言い表せない。


 ―― ドキン!


 來未と目が合い、心臓が早鐘のように打つ。

 

 強い。強い目の輝き。黒鳥の目だ。


 來未の黒目がちな瞳は、黒鳥そのものだった。

 黒鳥に誘惑される王子のように、心がざわざわと揺れる。


「來未ちゃんも大丈夫そうね」


 安心したような先生。


「二人とも体に気を付けて……これから練習はどんどん厳しくなりますからね!」


「はい!」


 その後、花嫁候補の王女達の踊り、スペインの踊り、ナポリの踊り……。

 次々に振付が進められていく。

 

『白鳥の湖』は、踊りも音楽も素晴らしいものばかり。

 息の合った白鳥の群舞(コールド)に、思わずため息が零れる。


 ――時折、


 ……視線を感じる。

 高校生以上の人達だ。

 厳しい目で私と來未を見ている。


 無理もない。

 発表会で全幕を公演するのは五年に一度。

 次に主役を踊る機会は五年後までない。

 でも……五年後にバレエを続けていられるのか? それは誰にもわからない。

 進学、就職、結婚をしている人もいるかもしれない。

 仕事や家事をしながらバレエを続けることはできるかもしれない。

 でも、練習にかける時間は減るだろう。

 そうなれば、もう主役を踊ることはできないのだ。

 

 スペインの踊りの振付が始まり、カスタネットが心躍るリズムを刻む。

 なのに……。

 自分の背負った責任の大きさが、重い塊のようにのしかかり、私は音楽に気持ちを合わせることができなかった。


 連日続くレッスンに加え、主役を演じるプレッシャー。

 心身の疲労は、日ごとに蓄積していく。

 そんなある日、爪先立ちでポーズをとった瞬間、私はバランスを崩してしまった。

 

「危ない!」


「大丈夫!?」


 稽古場に漏れる、仲間達の小さな悲鳴。


「……だ、大丈です! すみませんでした!」


 体が重く、思うように動かない。

 それでも練習を続ける私を、先生が制止した。


「……沙羅ちゃん、顔色が悪い。今日は、もう帰りなさい……」


「大丈夫です!」


「だめ! 一日ゆっくり休むの……また、明日からレッスンすればいい。貴女は十分練習しているのだから……」


 見渡すと、皆が不安げに私を凝視している。

 

「……わかりました……」


 荷物をまとめ、私は稽古場を後にした。


(……恥ずかしい……こんな時に具合が悪くなるなんて……練習も遅れてしまう……)


 他の生徒は練習をしていて、更衣室には誰もいない。

 見上げれば、天井近くの小窓から夕日が差し込む。

 やや薄暗いが、自分一人だし、不自由はないので、照明を点けずに着替え始めた。

 いつもなら忙(せわ)しく賑わう更衣室が、今はしんと静まり返っている。


(……やだ……明りを点ければよかった……)

 

 心細さ共に、押し寄せる不安と焦り。 

 無性に誰かと話がしたくなる。

 おしゃべりをして気を紛らわせたかった。


 その時稽古場の方から、耳慣れた音楽が聴こえてきた。


「……これは……“小さな四羽の白鳥”! 今練習しているのね……」


 “小さな”四羽の白鳥は”、『白鳥の湖』第二幕で踊られるもので、四人が横並びに手を繋いだままステップを踏む。

 私が初めて踊ったのは、児童クラスの時だった。


「……爪先立ち……片足を伸ばして……ジャンプして……」


 メロディーを聴けば、ありありと振りが目に浮かぶ。


「四人揃わなくて、よく注意されたっけ……あの時は辛かったけど……」


 思い出せば懐かしく、自然と口元がほころんだ。


「そう! 先生の言うとおり! 今日は休んで、明日から頑張ろう!」


 軽快なリズムが、心を軽くしてくれたようだ。 

 気を取り直し着替え始めると、騒々しい足音が近づいて来る。


(……練習中なのに?)

 

 生徒は全員稽古場にいるはずだ。

 何故、廊下に出ているのだろうかと訝っていると、


 『信じられなぁ〜い!』

 『あんなんで主役よぉ〜』

 

 甲高い声は高校生のものだった。

 

 ……もしかして……。


(私がここにいるのを知って、話しているの?)


 私は足が震え、その場に立ちすくんでしまった。

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