第19話  睫毛の距離 1

 日曜日。

 いつものようにスペイン語のレッスンが始まる。


「結翔さん……。この動詞の意味は……?」


「……どれ……?」


 私が指さすテキストを結翔が覗き込む。


 近づく距離。

 私の顔のすぐ下に結翔の頭がある。


(……わっ!……睫毛長っ!……男の人なのに……)


 くるんとカールした睫毛が、上瞼に沿って綺麗に生えそろっている。

 睫毛の長い人には彫りの顔立ちの人が多いけど結翔もそう。

 でも、すっきりとした甘さがあって、濃すぎるというわけでもない。

 爽やかイケメンという類(たぐい)だ。


「……どうかした? ……沙羅ちゃん……」


「あ、……あの……」


 慌てる私。

 まさか勉強中に睫毛に見とれていたとは言えない。


「あはは……」


 笑ってごまかし続ける。


「……そっか……せっかくの日曜日だものね……土曜日はバレエだし……」


 結翔が考え込んでいる。


「そうだ! 外出しよう!」


「えっ!? ……スペイン語縛りのお出かけですか……?」


「ははは……今日は街を見て歩くだけ。……土曜日はバレエスタジオのバイトに協力してもらっているからね。気晴らしが必要だ!」


「嬉しい!?」


 感激のあまり踊り出したい気分になる。

 結翔は私が疲労の為に勉強に集中できないのだと考えたようだ。

 誤解だけど、おかげで結翔と遊びに行ける。


「じゃあ着替えてきます!」


「……そのままでいいよ?」


「着替えます! せっかくのお出かけですから!」


 私は素早く自室へ戻るとクローゼットの扉を全開にし、服を手当たり次第に物色する。


「どうしよう……動きやすい服にしよう…これがいいかしら……? でも、これは少し季節外れだし……」


 次々と取り出すものの決まらない。

 積みあがった衣類の山に埋もれながら、私は呆然と立ちすくむ。


「……うん……これにしよう!」


 ボーダーのカットソーに、ショート丈の紺のスカート。モスグリーンのジャケット。

 ネイビーのソックスにスニーカー。肩には同色のリュック。


(今日はいくらでも歩けそう!)


 結翔の待つ玄関へと向かう。


「お待たせしました!」


「おっ! 似合うね!」


「うふふ!」


 結翔も気に入ってくれたようで嬉しい。


 私達が住むのは静かな住宅街で、都心に出るには交通機関を乗り継がなくてはならない。


「渋谷に行こうか……あ、でも、この前なぁ……」


 結翔は心配しているようだけど、私は何処でもよかった。


「そうだなぁ……俺、天気もいいし、ぶらぶら歩きたい気分なんだよな……」


「私も!」


 お喋りに夢中になり過ぎると乗り越してしまうこともがある。

 でも、結翔が停車毎に確認をしているから大丈夫そう。

 私は何の気兼ねもなく結翔との移動を楽しんだ。


「オフィス街が近いけど、散歩するのにはいいよ……」


 最寄り駅で降りて堀に沿って歩く。

 たどり着いたのは、都会のオアシスとも呼べる公園だった。

 園内から、オフィス街の高層ビルが連なって見える。

 一瞬自分が何処にいるのかが分からなくなるほどだ。

 花壇の間の遊歩道を歩き、日本庭園に設(しつら)えた池を眺める。

 演者のいない野外音楽堂の前を通り、山に見立てられた丘を登った。

 噴水の前で水をかける振りをすると、結翔が大袈裟に悲鳴を上げた。

 おどける姿に私が笑う。


(楽しい! これだけのことがこんなに楽しいなんて!)


 ずっとこうしていたい。

 そんな気分だ。


「結構いい運動になるよね!」


「本当に! 歩くだけでリフレッシュできます!」


「……そろそろ休憩しようか?」


「はい!」


 本当のことを言うと、私はもっと歩けた。

 でも、休憩も必要だろう。


 私達は園内にあるカフェに入り、ハンバーガーと温かい飲み物を注文する。


「運動の後の飯は美味いぞ!」


「いただきまぁ〜す!」


 私がハンバーガーに口を付けようとした時だ。


「塔ノ森君!」


 背後から凛と通る声がする。


「……あ……広瀬!」


 結翔が声の主の名を呼び、私は振り返る。


 そこには一人の女性が立っていた。

 すらりとした細身の体に、長いストレートの黒髪。

 瞳は大きく表情豊かで、結翔に会えた喜びを湛えていた。


「……塔ノ森君……」


 懐かしそうに結翔の名を呼ぶ。


「久しぶりだな広瀬! こんなところで会うなんて!」


 結翔も嬉しそうだ。


「ええ……私は図書館へ…」


 と、隣接された建物を指さす。


「……そっか……広瀬んちこの近くだったもんな!」


(えっ……? この辺りに人が住む家があるの……? こんな所に住んでいるなんて……)


 私は二人のやり取りを見守るだけだった。

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