第18話  斜め45度の誘惑

 初心者クラスは毎週土曜日。

 私は、買ったばかりのレオタードを持ってスタジオへと向かう。

 肩がチュールになった水色のレオタードだ。

 お気に入りのレオタードを始めて着る。

 私はうきうきとした気持ちでスタジオに到着するが、まだ誰も来ていない。

 三十分以上前に到着したのだから無理もないだろう。


(新しいレオタードのせいで張り切り過ぎちゃった……)

 

 ストレッチをして、バーレッスンを済ませても、まだ時間が余っている。

 誰もいないレッスン場は、いつもより広く見えた。

 

 人のいないスタジオを見回す。

 

「踊っちゃおうかな……」

 

 少しばかりの決断の後、教室の隅へ行き、軽く深呼吸をする。

 これは気持ちを落ち着けるためのおまじない。

 

 背筋を伸ばして、腕を下へ45度。掌を下に向けて伸ばすアロンジェ。これが “小さな二番ポールドブラ”。

 

 中央へ歩み出て定位置に着くと、前足に重心をかけ、後ろの足はデリエール(後ろ)へ伸ばす。

 体の前で腕を伸ばして、手首を交差させて静止。

 

 ――プレパラシオン。

 音楽を待つ時間準備のポーズだ。


 そして……


 片方の脚を軸にして立ち、もう一方の脚の膝を約90度に曲げて体の後ろで持ち上げる。 “アチチュード”。

 

 子供の頃から踊りこんできた曲だから、音楽は私の中に染みついている。

 だから音が無くても踊れる。

 

 “きゅっきゅっ”、バレエシューズで床をする音がスタジオに響く。


 懐かしい音。


 方向を変えて、もう一度アチチュード。

 手は高くなり過ぎないように気を配って、柔らかく。

 同じことを四回繰り返す。

 

 膝を曲げる“プリエ”、脚を後ろに伸ばして上げる“アラベスク”。

 プリエとアラベスを繰り返して後ろへ下がる。

 

 両足で踏み切った脚を空中で前後に伸ばして片足で着地する“シソンヌ”を軽快に繰り返す。

 

 そして、爪先立ちで上に伸びて“シュス”で静止ポーズ

 足は五番ポジション。二本の足が一本に見えるようにクロスして両手は上で輪を描くように立つ。


 いい感じ! バレエシューズとはいえ、ブランクがあることが嘘みたい!

 

 体が軽いのはレッスンをしているせいだろう。


 ―― カタン!

 戸口から音がする。


 や、……やだっ!

 生徒さん?

 恥ずかしい!!

 一人でいい気になって踊ったりして!


 振り返ると、そこに立っていたのは……。


「結翔さん!」


 見られていた!

 恥ずかしい! 自分に酔っているように見えただろうか?


「やあ! 沙羅ちゃん。上手だね」


「……そ、そんな……」


 一人で踊る姿を見られるのは恥ずかしいけど、お洒落なレオタードを着ていたことが幸いだ。


「本当に! 何の踊り?」


「……オーロラ姫のヴァリアシオン。音楽もなかったし、……バレエを習っている人じゃなきゃわかりませんよね……」


 ヴァリアシオンというのは、バレエの中のソロの踊りのこと。


「役の名前は聞いたことあるな。チャイコフスキーの?」


「『眠れる森の美女』……オーロラ姫は主役ヒロインの名前なんです」


 『眠れる森の美女』は、シャルル・ペローの童話を題材にしたバレエで、1890年、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で初演された。

 音楽は、ロシアの作曲家、ピョートル・チャイコフスキーのもので、『世界三大バレエ』の一つとして知られる。

 

 物語は、オーロラ姫の洗礼式に呼ばれなかった魔女が、怒って呪いをかける場面から始まる。


「第三幕の結婚式の場面で踊るんです……」


 百年の眠りから覚めたオーロラ姫が、デジレ王子と結婚式を挙げる最も華やかな場面だ


「そっかー! 音楽が無くてもよかったよ!」


「……恥ずかしい……どうして黙って見ていたんですか?」


「ごめん。ごめん。声をかけ辛かったんだ。よかったよ!……とくに最初のポーズ。なんていうの?」


「アチチュード」


 最も美しいバレエのポーズの一つだ。

 このヴァリアシオンは何種類かあって、それぞれが洗練されていて素敵だけど、このアチチュードのある振り付けは、ダンサーの脚の美しさを際立たせる。


 すっと伸びた足が綺麗だと先生に褒められたこともある。


「……髪を上げているのも初めて見た……」

 

 ふっと、結翔が目をそらした。


(……どうしたのかしら……? もっと見てもらいたいのに……)


「……似合ってます?」


 私の声に結翔が顔を上げた。

 でも、何だか様子がおかしい。


「レッスンの時はいつも髪を上げるんです……シニヨンって言うんです……」


 おくれ毛を指で押さえながら、上目づかいで結翔を見る。

 彼は三つ年上で頼りになるけど、私だって子供じゃない。

 ミルクティー色の髪に琥珀の瞳。

 “沙羅ちゃんはかわいいね”ってよく言われるし、綺麗だと言ってくれる人もいる。

 結翔の目にはどう映るのだろう?


「……う……うん……」


 え?

 それだけ?


 歯切れが悪くてもごもごとしている。

 いつもの結翔なら、「沙羅ちゃんかわいいね!」って笑顔で褒めてくれるはずだ。


(そうだ!)


 体の向きを変え、斜め45度の位置に立つ。

 これはダンサーを美しく見せる角度だ。

 そして、爪先を伸ばした右足を前に出しながら、


 足長いでしょ? と得意げに言い放つ私。


 ……でも、


 結翔はますます顔を赤くして俯いてしまった。


(え!? 何? どういうこと?……どうしたの?)


 結翔の態度が急変し困り果てる。


(……そ、そうだ、話題を変えよう……何か質問しないと!)


「……結翔さん。なんで今日ここにいるんですか?」


 話題が変わって、結翔はほっとしたようだ。

 

「え? ……ああ、沙羅ちゃんが俺に会いたがってるって、牧嶋さんから聞いたんだ。“私、女の子の気持ちはわかるのよね”って言ってた。あの人、心は女だから……」


 え?

 え?

 え?

 

 その私から彼に恋愛感情で会いたいと誤解を招く言い方って、女の子に対して失礼だと思う。


(そうだ!)

 

 自分が言うべきことを思い出す。

 私は先週結翔に渋谷で会っているが、慌ただしさのせいで出来なかった話だ。


「結翔さん!」


「はいっ!」


 キッっと睨むと、結翔の背中がピシリと伸びた。

 まるでばね仕掛けの人形みたい。

 一瞬笑いたくなるけど、きりりと頬を引き締める。


「誤解しないでください! 私が会いたかったのは、どうして私を牧嶋さんに紹介したかを聞くためです! 紹介料を貰ったなんて聞いていません!」


「あ、話してなかったっけ?……ごめん……」


 言い忘れたのは本当のようだが、私の気持ちは収まらない。


「聞いてません!」


「……牧嶋さんはいい人だし……断り切れなかったんだ……それに、沙羅ちゃんが本格的にレッスンを再開するウォーミングアップにもなると思ったんだ……」


「え……? 私のため……?」


 確かに、今日調子よく踊れたのはレッスンをしていたせいだ。

 それに結翔には、自分がバレエを辞めるつもなのを言っていない。

 結翔は良かれと思ってやったのだ。


 それに、レッスンは楽しく、嫌ではなかった。

 結翔は私にとっても“幸運の天使”だったのだ。

 

 ――いつしか怒りは静まっていた。


「……結翔さんがきちんとご飯を食べてくれるならいいです………バイト代が入れば、ちゃんと食べられますよね? ……結翔さん?」


「……またご飯の話? お母さんみたいだな……」


「私は結翔さんのお母さんじゃありません!」


 抗議をするもおかしくて、二人は同時に笑い出した。

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る